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(回答先: 般若心経的世界観 投稿者 如往 日時 2007 年 4 月 07 日 03:16:05)
横レス失礼致します。お二方の応対を楽しく拝見させて頂いております。
ただ、如往さんが語られた「私は生物の個体としての存在理由(或いは存在目的)は遺伝子の承継(発芽+生存環境の確保)にあると考えています。」ということの発想の根拠が、どうも曖昧に処理されてしまったことに少々残念に感じました。
その如往さんの発想の源泉として、般若心経の世界観があるということですが、俺は、それを仏教的な発想かもしれませんが、仏陀的ではないと感じました。また、実に宗教的(信仰的)であって、思考的(哲学的)ではないとも言えるかもしれません。
般若心経は、仏陀が舎利子(シャーリープトラ)に対して説いたものではありますが、俺は、仏陀がそれを全人類に対して、そしてその存在理由(存在目的)をも込めて説いたものだとは思ってはおりません。
仏陀、つまりゴータマ・シッダールタは、自らの教えから決して宗教を作らないようにと弟子達に指示していたと俺は記憶しております。つまりそれは道を尋ねるものにただ知っている道を教えたということに過ぎないということであり、万人に対する、万人に当て嵌まるものではなかったと理解しているからです。
また、般若心経の世界観に見出したものが、「生命は、虚時間の地平から出でて実時間の河を渡りやがて虚時間の地平に還る」というものならば、なぜ生命はそんなことを続けるのかという考察が抜け落ちているように思われます。それは本当に意義のあることなのでしょうか?なぜ実時間の河に出る必要があるのでしょうか?最初から最後まで虚時間のままではいけないのでしょうか?そこにどうしても出て行かなければならない理由、目的が見出せるでしょうか?
仏陀はこの世の全てが苦であると言い切りました。つまり実時間の河や、その過程全てが苦であると結論付けたと認識しております。だからこそ仏陀は原点である無への回帰と、そして全てからの完全なる離脱(解脱)へと向かったものだと思われますが、ならなおさら生命に意義があり、理由があり、目的があると考えていたでしょうか?
もちろん実時間の河を渡る前の虚時間と、実時間の河を渡った後の虚時間とでは、石と仏陀を比較するようなもので、それは似て非なるものであり、違った意味を持つことかもしれません。むしろ般若心経の世界観とは、そうした意味が込められていると思っております。
しかし、だから何なのだとも俺は思ってしまいます。なぜそうなる必要があるのか、そうなる根本的な意義や理由があるのかと。
俺は仏典のどこを読んでも根本的な人間の存在意義、存在理由、存在目的を見出す事はできません。ただ、多くの人は、至福や悟りや光明などと言った聞こえの良いゴールへと辿り着くことに思考停止状態になっているだけだと思っており、なぜそんなものが設置されて、なぜそれを追い求めるように仕向けられている(宿命付けられている)のかに対して、疑問や考察をすることもないのが宗教の現状だと思っております。
確かにお腹が空けば食べればいいし、息を吸い込んだら吐けばいいですし、幸福があるならそれを掴み取ればいいです。自ら好きでそれら全ての現実を選択していると言われれば、もちろんそうなのかもしれません。ただ、なぜその志向性が生まれ、なぜこんなことを続けているのかに、俺はただ純粋に疑問を感じているだけです。
また余談ですが、般若心経は近年の厳密な学説等においては、仏陀滅後数百年後の初期大乗仏教の創作であり、仏陀直説の教法ではないともされております。ただ俺は、特に根拠なく般若心経を仏陀直説のものであるとして認識し上記を書いておりますし、また特に拘るところでもありません。