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(回答先: Re: 般若心経的世界観 投稿者 アロン 日時 2007 年 4 月 08 日 23:52:54)
アロンさん、こんにちは、レスを有り難うございます。
>ただ、如往さんが語られた「私は生物の個体としての存在理由(或いは存在目的)は遺伝子の承継(発芽+生存環境の確保)にあると考えています。」ということの発想の根拠が、どうも曖昧に処理されてしまったことに少々残念に感じました。
本来は専門外なのですが、10年程前から生物発生学や分子生物学に興味を覚え、関係書物を渉猟して得た多くの知見から学んだもので、ディテールにまで及んで解説することはご批判に堪えうるものでありませんので、是非とも差し控えさていただきたく思います。
>その如往さんの発想の源泉として、般若心経の世界観があるということですが、俺は、それを仏教的な発想かもしれませんが、仏陀的ではないと感じました。また、実に宗教的(信仰的)であって、思考的(哲学的)ではないとも言えるかもしれません。
フッサール以前の2000年近く前の見識とは云うものの、般若心経的視座による解析が所謂現象学的還元の極致に感じられたものでした。「生命は、虚時間の地平から出でて実時間の河を渡りやがて虚時間の地平に還る」については、時間軸を組み入れての“差延”の把捉が私にとっての新たなテーマになったことを除けば、今でもその見解には変わりありません。
>俺は仏典のどこを読んでも根本的な人間の存在意義、存在理由、存在目的を見出す事はできません。ただ、多くの人は、至福や悟りや光明などと言った聞こえの良いゴールへと辿り着くことに思考停止状態になっているだけだと思っており、なぜそんなものが設置されて、なぜそれを追い求めるように仕向けられている(宿命付けられている)のかに対して、疑問や考察をすることもないのが宗教の現状だと思っております。
生命現象の根拠を問うときにア・プリオーリには理由であり、ア・ポステリオーリには目的となるのでありましょうが、前者の解明にあたって現状は多くを分子生物学的な方法に依拠せざるを得ないと想われますし、後者を探求していく場合には主に脳機能の拡張性の反映として予言等の宗教的な色彩を帯びることになるかも知れません。
すべての仏典を網羅している訳ではありませんが、般若心経が人間の存在意義や存在理由や存在目的を語っているものではないのは明らかであるものの、強いて云えば人間が生きていく上での基底的な認識(諦念)のようなものを与えていると観取することは可能だと考えています。その上で仏陀は、存在意義を探求(創造)しようとするのが人間の性であると喝破し、その道行(実時間の河を渡っていく)の背中から“「掲帝 掲帝 般羅掲帝 般羅僧掲帝 菩提僧莎訶」 (往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、悟りの岸へ全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ。)”と、風を送っているのではないでしょうか。なるほどこれを説話の類いのものと謂えば云えないことではないのでありますが...。
また、会いましょう。