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般若心経におけるパラドックス
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投稿者 アロン 日時 2007 年 4 月 09 日 19:19:23: 8bD0zxkq8P3mA
 

(回答先: 少なからず根本的な誤解があるかも知れません。 投稿者 如往 日時 2007 年 4 月 09 日 03:39:57)

如往さん、こんにちは。


>『フッサール以前の2000年近く前の見識とは云うものの、般若心経的視座による解析が所謂現象学的還元の極致に感じられたものでした。「生命は、虚時間の地平から出でて実時間の河を渡りやがて虚時間の地平に還る」については、時間軸を組み入れての“差延”の把捉が私にとっての新たなテーマになったことを除けば、今でもその見解には変わりありません。』


「生命」というのが、何を指してのものなのかが解りかねますが、生きている命ある存在とするのなら、それは死にいく宿命にあり、一つの生と死の観念をもつ思考である自我に支えられた存在という意味だと解釈しております。俺は、虚時間というものが、自我の存在でき得る領域にあるとは理解することはできません。そして自我とは、実時間に起こる二元性の内にある概念だと思っておりますし、また、それは般若心経からも読み取れることだと思います。ならば虚時間と実時間の河を渡るものは何かという問いになるでしょうし、仏陀は般若心経において舎利子という存在の“何”に対して語りかけているのかという問いにもなるのでしょう。
実時間を成立させているのは記憶であり観念であり思考であり、そして知識になるのでしょう。般若心経の伝えているものとは知恵の完成であって、知識の完成ではありません。この場合の知恵とは、知識を伴うものではなく、完全なる“今”に対する認識(?)のようなもので、デリタの言う“差延”に通じることだとは思ってはおりますが、その認識する主体としての“何か”、言葉に言い表すことが困難な“何か”が、虚時間と実時間を通して洗練されてくるのかもしれません。
しかしその“何か”は、知識を伴わないため、実時間においては相容れない概念であると思われ、虚時間と実時間を行き来しているとも言い難いと思いますし、ただ虚時間だけがあって、実は何も起こっていない(渡っていない)とさえ言えることだとも思います。
つまり言い換えるなら、思考や記憶ある生命という存在は、虚時間の地平から出でて実時間の河を渡りやがて虚時間の地平に還るのではなく、実時間のみにただ存在するものであると言えるのではないでしょうか。


>『すべての仏典を網羅している訳ではありませんが、般若心経が人間の存在意義や存在理由や存在目的を語っているものではないのは明らかであるものの、強いて云えば人間が生きていく上での基底的な認識(諦念)のようなものを与えていると観取することは可能だと考えています。その上で仏陀は、存在意義を探求(創造)しようとするのが人間の性であると喝破し、その道行(実時間の河を渡っていく)の背中から“「掲帝 掲帝 般羅掲帝 般羅僧掲帝 菩提僧莎訶」 (往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、悟りの岸へ全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ。)”と、風を送っているのではないでしょうか。なるほどこれを説話の類いのものと謂えば云えないことではないのでありますが...。』


上記で述べた通り、般若心経において仏陀が舎利子に対して語っていることが、「人間が生きて行く上での基底的な認識(諦念)になり得る事柄」ではなく、完全に真逆の事柄を述べているように俺は認識しております。言い換えるのなら、生きている人間を一切相手にしていないのではないかと。つまりあえて言うなら生きていない“何か”、形のない“何か”、達成することも無達成することもない“何か”に対して、ただ語りかけているような、知識や思考ではどうしようも対処のできない事柄のように感じます。
ですから、「往ける者よ、往ける者よ」という翻訳にはかなりの違和感を感じております。なぜならそれは「往ける“者”」という、個人としての“者”が決して往けることができるようなところでは無いと思っているからです。
また、存在意義を探求(創造)しようとするのは、人間の性だとは思っておりますが、ただそれは信仰などにより安易な存在意義という答えに満足することにより、それ以上考えるなとか、抑圧せよという意味ではないと思っております。仏陀は、それを無くせという意味において喝破しているのではなく、それを落とせという意味だと捉えております。つまり言い換えるのならその人間の性に対する自己同一化をやめよと言ったところでしょうか。
しかし言葉は、記憶や観念や思考を伴って発せられ理解され得るものです。その言葉を利用した意志伝達は、すでに大きな矛盾が生じていると俺は思っております。思考を棄てろとか、人間の性を棄てろとか、自我を棄てろと言ったところで、その言葉を理解し、受け止める機能を有しているのが思考や自我そのものであるのに、どうしてそれを棄て去り、それを落とすことができ得るでしょうか。般若心経に限らず、仏陀の説法は、そういったパラドックスで成り立っていると理解しておりますし、寧ろ仏陀は、それらにより思考の混乱を誘っているのではないかとも思われます。

ただ俺の理解としては、人間の性や欲求が落ちるには、それがトコトンまで追求され、洗練され、そしてその末路を見つめられなければならないと思っており、そうして木から実が落ちるように、それが剥がれ落ちる時期が来るのかもしれないと...。もちろんそれが起き得るかどうかはいささか疑問ですし、そこにも大きなパラドックスが待ち構えていると俺は思っております。

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