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天候不順で心配された米も案外立派な作柄となり、一時心配された石油価格も下落傾向にシフトしはじめたようじゃから、冬の灯油も安心できそうじゃで、何となくさわやかな秋じゃわのう。こうして、まあいろいろに不満のある社会とは言え、季節が順序正しく巡ってくるのはあり難いことじゃて。
しかしながら一方で、可愛いはずのわが子を平気で虐待、殺人。慕って当たり前の親を子が殺す。人の道を説くべき立場の社会上層部の人間が詭弁、汚職、犯罪、色狂いなどなど。当たり前の基準や順序礼節がどうかなりそうで、苦しい気持ちになる事件が多くなっとるのも事実じゃわのう。
それもこれも、日月神示など多くの霊言でも伝えられているように、人間の身魂分けの時代じゃによって、神のごとき人、普通の人、獣のような人にはっきりと分類される時節じゃから、過去に積み重なる罪穢れの結果として、やむを得ない現象なんじゃろうかのう。
しかし、聞くのも辛いもんがあるわな。まあ北朝鮮の核問題もそうなんじゃろ。
これら一見理不尽と思われることも、実は秩序の内にあり、順序正しい天地、宇宙の巡りであり、岡田茂吉師が言うところの、夜昼転換の真っ只中ゆえのことじゃろうと思うのう。しかしながら、哀しい現実じゃわな。少なくとも我々はこうした腐り行く現実に流されること無く、粛々と徳積みを励みたいもんじゃて。
神界・霊界はあると思う人と、拝金思考、唯物的思考が強く、眼に見えない世界を否定する人との思考区分は身魂分けの一つの基準となるわな。
眼に見えない世界を否定し、唯物的思考が強い人の多くは、神や先祖からのサインに気がつかないと考えられ、気がつかないと云うことは魂の曇りが濃いわけじゃから、身魂が低い傾向にあることとなるわな。身魂が低いということは、野獣に近い存在じゃわのう。
霊界は想念の世界じゃから、たとえば、唯物志向に固まった心の人間が金をかけて豪華な供養をしても、たいした供養にはならんが、霊界を認識した者がささやかでも供養すれば、絢爛豪華な供養となると大神は仰せじゃて。
ある意味で仏教説話の「貧者の一灯」じゃわさ。唯物思考では愛が薄っぺらなんじゃわ。愛が薄っぺらということは、大して徳があるわけでもなく、死んだ後の行き先もしれとるわのう。
ところがじゃ、霊界・神界を強く意識する方々の中に、ちょっと奇妙な方向へ歩んどる人のいることに気がついたんじゃて。
細木和子さんや江原啓之さんなどの著名な霊能者がおるが、彼らはレベルこそ低いものの良い仕事をしておると思うのう。実に、腐り行く人々、野獣化する人々へのシンプルで分かりやすい、強いメッセージとなっとると思うのう。
しかし、霊能者といえども身魂相応の原理が働き、高い霊能者は高い次元から高い仲介者(狐霊、竜神、守護霊など)を経て情報をキャッチするもんじゃが、低い者はその逆じゃわな。
ところが、いずれも情報のソースや正・邪については簡単には分からんのじゃて。したがって、たとえば江原さんにしても、森を見ず木を見るごとく、彼の魂レベルに相応した範囲の情報、部分的な状況しか見えないうえに、情報のソースにしても、相談・依頼者の霊格にも影響され正邪さえも必ずしも分からんもんじゃぞ。むしろ、江原さんの思わんところで、邪神の引っ掛けや、偽情報、ひずんだ情報が紛れ込んだり、飛びかっとることになるんじゃて。
霊能者はこうしたノイズに弱いんじゃ。見えたり、聞こえたりしとるからそれに固執し、それが本当じゃと思い込むんじゃわのう。そして、真邪の実体は必ずしも断定できんのじゃて。
とくに狐さんは上手じゃからのう。例えば、お母さんが出てきて、お母さんとその子供しか知らんことを語ったとしても、狐霊さんは上手に化けて、霊能者にそのような姿に見せ、話にしても瞬時に人の頭の中の情報を読みきるから、相手の思いや知識も簡単に盗むわな。そんな動物霊にかかったら真偽の見分け何ぞできんぞ。ここが難しいとこじゃわのう。
あるいは、世間でお祓いやお清めといって怨みの霊界人が改心するように、念や祝詞などを上げる場合もあるが、それを1回や2回などとちょっとやったくらいで怨みが晴れたり、不成仏霊が清まるなどは余程の聖者しかあり得んのじゃから、そういう面でも誤解や甘えが生じやすいわのう。とくに怨念が深く、しかも霊力が強い場合、幾重にもトラップを仕掛け、本人も姿は見せんわな。以前テレビで放映されていた江原さんの仕事を見ていたら、しっかりと騙されていたわな。
その点、以前亡くなった宜保愛子さんの晩年の仕事は素晴らしかったわのう。自分に聞こえたことは聞いたとして、相手の魂が向上するような助言を行っておったわのう。この魂を向上させようとする助言が難しいし、尊いわな。当たり外れじゃなくて、相手の魂が向上するための助言こそが重要なんじゃて。
一旦インチキして、霊能力が地に落ちると容易に霊能力は戻れず、下級霊に踊らされることが多いが、余程の修行で心が変ったんじゃろうて。最後は本物になって逝かれたと思うんじゃがのう。
そして、江原さんなど霊能者の霊言が良く当たると、それに驚き、信じる心が強くなって、いつしか自分の意思や気持ちよりも霊言に従いやすいのが人情じゃわな。こうなると、霊能者や霊界のメッセンジャー、霊界のソースの存在などに魂が奪われたとか、洗脳されたと同じじゃて。
小さなことをどんどんとピッタリ当て、すっかり信用しきったところで、大事な部分を狂わせて道を誤らせる。簡単に人の心へ入り込んで争いの種をまくのが、実は邪神の得意技じゃわさ。危ない危ない。じゃによって日月神示に「人は人と語れよ。霊と語るなよ」とあるのは、この危険性を指摘しておるんじゃろうとワシは思うとるんじゃて。
ワシも霊的現象については、ワシ自身がちょっと並外れた体験者じゃと最近気づいたんじゃが、ワシは霊能者じゃないによって、細かな部分はわからんので木は良く見えんが、審神(さにわ)師的な判断と、総合的な感知で森が、全体が、真偽が分かってくるわけじゃわ。
それにじゃ、霊界人や神が事細かな情報を現世人へ伝えようとするのは極めて例外的で、そうした事柄は何としても伝えようとするので、受け入れる側に真摯な心があれば、自然と分かるもんじゃわのう。
霊主体従の法則というこの地球上の大原則がある以上、霊界の実相を知ることは極めて重要なものの、霊能者からお告げがあったと言って、やれ方角がおかしいとか、日柄が良くないとか、柱に釘を打ったのが悪いとか言い始めたら要チェックじゃて。霊の奴隷になりかけておるぞ。逆に、お払いしたからもう良くなったとか、これもあかんわな。こうした立場で霊界とつながっている人は、実はこれも自己愛の強さの現れであり、唯物志向と結果的に同じじゃから気をつけたいもんじゃぞ。
実は、霊能者の能力の高低もさることながら、情報の正邪、正鵠さは霊能者に依頼する側の身魂に相応して発現するもんじゃし、情報内容としても、子孫が幸せになって欲しいので、コツコツと徳積みしてほしいとするメッセージに集約されるんじゃから、霊能者に聞くまでもないわのう。
むしろ徳積みの適切、不適切が問題であって、日々に起きる日常的現象の中から、いかにサインを読み取るかについてしっかり学ばないかんわさ。
一度二度の情報に踊らず、日々の現象、家族や血縁者の健康、生活状況等を総合的に判断しながら、霊能者の声はあくまで参考として採り上げる態度が重要じゃと思う。
もともと生きること自体が、罪を作りながらでしか生きれんようにできとるでな、大神様は「隣の葉っぱ一枚取っても罪となる」と仰せじゃが、米や魚を食らうことも罪じゃし、ましては罪無き牛を食べる目的で飼育しとるなんぞは、恐ろしい所業ということになるわさ。
人が他の命(動植物)を食さなければ生きておれんのは、他の命を食してでも生きることが許されているということであり、人が生きること、人生の道を渡ることはそれほどに重要な意味があるということじゃし、ワシら人生の深い意義を指し示しとるんじゃて。
また、生きることが許されておる存在じゃとしても良いし、許されておるということは、当然、何かを成すために生かされているんじゃわのう。
じゃによって、小さな罪も罪として認めて受け入れながらも、その罪を償って余りある徳積みをする。食された命に感謝しながらも、コツコツと本物の徳積みをすることが生きる目的なんじゃわさ。徳積みの本質は、己の利益や都合よりも人のために何かをすることじゃでな。
今後、自称霊能者がますます増えてくるはずじゃが、また、身魂分けによる振るい落としと、それに伴う病気やアクシデントも激増すると思うが、つまらん情報に踊らされず、また自分勝手な頼みごとに終始せず、謙虚に徳積みする心にのみ花が咲くはずじゃわのう。