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(回答先: ぼけ仙人さんの文章から麻原以上のものを感じました 投稿者 縄文ビト 日時 2006 年 10 月 25 日 13:52:36)
縄文ビトさんこんばんは。
この世には、さまざまな考え方や、受け止め方があるからのう。縄文ビトさんがそう思ったら、そうなんじゃろうね。ワシには麻原以上の意味が不明じゃが、まあ、嫌な感じとは分かるがの。とは言え、まったく違うと受け止める人もいると思うわのう。
じゃが、何ゆえこのサイトにあまり似つかわしくもないテーマを、時折り送信しとるかじゃわな。それは、ものの見方や、考え方、人の生き様について単に一石を投じとるだけなんじゃが、あまりにユダヤ的思想というか、唯物的思想に傾斜する日本の人々に勝手ながら、ちょこっと棹差しとるとるわけじゃわさ。しかし、ワシは縄文ビトさんが唯物的とは思っておらんかったがのう。どうも物理学的なものと唯物的なものが一緒になっとるんじゃなかろうか。
唯物的とは、居流皆亭が仕掛けた神の道から離れていく思考法じゃわな。先祖や霊界の存在を否定し、魂や霊の存在を認めない思想じゃわな。それ故に、各地にある神々を否定し死んだらおしまいじゃから、物に執着させ、コミュニティーに争いをもたらす。死後の世界がないので、欲望のまま生き、弱肉強食の文化とし、人の心から思いやりや謙虚さを失わせる。土着の文化を無くし、相争わせて人としてあるべき心を忘れさせ、憎しみを増大させて、その間隙をついて他民族を支配する旨いやりかたじゃわのう。
日本人の多くは自分が唯物的じゃないぞと思っておるような人でも、かなりの比率で食いこまれておるわなあ。残念ながら。彼らにすでに洗脳されておることになり、いずれ飲み込まれれていくじゃろうね。ゆえに、それに対峙する思想の一端をお伝えしたいだけじゃて。
先祖と現世人と一体となって、魂の向上を目指し、自分だけではなく、生きとし生けるものが調和し、お互いが豊かに幸せとなる道じゃと思っておるんじゃが、それは観念論じゃなく、実践的方法論じゃわな。
縄文ビトさんは神や先祖、宗教や霊界を観念的なものに、封じ込めているだけじゃろうと思うわのう。
ワシは合理主義者じゃが観念論者ではないぞ。ワシにとっての観念論とはむしろ、縄文ビトさん指摘した時間と空間の話のようなもんじゃ思うとる。人が幸せになる道は現実的な方法論じゃぞ。
時間と空間の話は、量子力学の一端じゃと思うが、神が創ったのが地球だけじゃと誰が言っとるのかのう。多次元宇宙を想定しても、神が幾つ創ったか分からんし、また、幾くつ作っても、そんなもんどうでもいいわさ。霊界もその無限空間にあるのか、別次元なのかはてさて、この世は四次元の陰だか何だか知らんけど、ワシは縄文ビトさんと確かにこの地球に暮らし、時代を共有しとる。そして、地球以外の空間は知らんし、過去世があったとしても本当の実態はわからんわさ。他所にある空間があるかないよりも、ワシは縄文ビトさんを始めとして、同じ時代に生きる人々がもっと幸せになる方法の方が大事じゃわさ。
じゃが、ご指摘のような意味でお答えするなら、無限空間では、ぽっ、ぽっと物質が生まれ、それがプラスと、マイナスに分離し、そのどちらか側が我々世界を構成し、もう一方の物質(クオーク?…物理学は弱いんじゃて、のようなものとしてほしい)は違う次元に消えていくらしいのう。それが並行宇宙、多次元宇宙を想定させたわけじゃが、そのクオークは無限空間に存在し、その無限空間の一部に、奇妙にも極めて密度の高い空間があり、それがこの世で、人はその集合体じゃわのう。じゃによって、そのクオークの密集空間の結晶のような存在が生物らしいぞ。
そして、そのクオーク一粒一粒にも微弱ながら愛があり、意志があるんじゃて。これは量子力学と宗教の論理的に融合するところと思うんじゃがどうゃろうかのう。ここが難しいところじゃわな。したがって万物に魂があり、愛があるわけじゃが、人はクオークの結晶みたいな集合体じゃから、愛そのものじゃわな。じゃから、時間と空間の図は物理学的志向の図じゃが宗教学的志向の図でもあり、唯物じゃないんじゃて。
物理学的なものと宗教的なものを融合させ、以下のような方程式を考えたんじゃて
徳の高さ=愛の大きさ、深さ=霊格の高さ=魂の大きさ、軽さ=波動レベル(周波数)の高さ=素粒子の高位性=光の強さ=精神、肉体の高質化=健康レベルの高さ=血液の清らかさ=幸せ度の高さ=徳の高さ
この愛の塊が人の魂であり、霊じゃと思われるが、これを大きく、輝きを強くするのが人としての道じゃによって、これの輝きが少ない、小さいということは人の道から見れば野獣に近い存在となるわけじゃて。同じように、唯物的ということは、人の心を踏みにじってでも自分の利益を優先する考え方じゃから、愛が薄いにきまっとるわのう。しかし、ビジネス社会ではそれが求められ、それができん人は出世できんわな。そんな社会などワシは標ぼうしたくないわさ。そして、愛の薄っぺらい人は、死後同じクオークの波動集団に集合することとなるから、弱肉強食の世界で暮らすことになるんじゃからな。
宗教とは、ワシらがどうしたら人を傷つけず快適に暮らせるか。生きとし生けるものが調和し、豊かに明るく暮らせるにはどうしたら良いか。今悲しむ人がいたら、どうにかして幸せにできないだろうか。なぜ人は生まれ、なぜ生きるとるのか。そうしたことに解答を得られる道の教えのことであり、観念でも精神だけでもなく、心も物質的にも恵まれる小道じゃわさ。
その学びの場所が宗教団体じゃが、そこには正も邪も混じった団体じゃから、いろいろあるが、それも学びじゃわな。
学校に入ったら、誰でも同じように学力がついたり、みんな心優しい人にならんと同じじゃて。
野望を企てるやからは、宗教がなくてもやるし、どうやってでも実現しようとするわさ。
それよりも、本当の意味で宗教とは何か、人の道とは何かを問いかけた時、その人なりの正しい道が見え、いんちき宗教や、いんちき者も分かってくるし、だいたいが、急に自己流で学ぼうとして無理なんじゃて。人に学び、教祖の経典に学び、日常世界のサインで学び、これは独学ではできんのじゃて。とは言っても、苦い思いや、腹立たしいことも多いがのう。しかし、日本古来からの精神世界に濃縮された部分があるけどな。じゃからこの宗教的なものについても、居流皆亭の洗脳に引っかかっておると思うんじゃのう。
麻原にしても、ちょっとおたわけだったかもしれんが、気の毒に利用されただけかもしれんし、悪党ではなかったもしれんわな。それに、オームで修行する人が全て狂っているわけでもなく、正しい道を見つけた人もおるかもしれんわのう。
組織があろうとなかろうと、極めて行くのは自分じゃからのう。同じ学校におっても進む道や、趣味志向は違うじゃろうて。
また、ワシに反対しようが賛成しようが何の意味もないわさ。すべてがその人の魂相応にしか進めんからのう。それぞれの人が徳を積んで、自己の魂を向上させて行く。それしかないんじゃて。観念論じゃないぞ。幾多の体験を通じて、先祖を大切にし、人に思いやりと愛をもって接し、人として歩むべき道を求める姿勢こそが己を幸せにし、豊かにしてくれる。そうした道、そうした世界もあるということをお知らせしとるだけじゃて。選ぶのは自分自身、歩むのも自分自身。
しかし、縄文ビトさんでも、こうした視点で見とるということは、かつての日本人の心象風景が激変しとるということじゃろうのう。