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(回答先: Re: ぼけ仙人さん反論いたします 投稿者 ぼけ仙人 日時 2006 年 10 月 29 日 21:14:05)
ぼけ仙人 さん長い文章大変だったでしょう。
本日読ませていただきました。読んだ感想といたしましては、依然書いた文章と同じことの繰り返しにしかみえませが。そして何の進展もないような気がいたしますが
>科学的立場、眼に見える世界ついては、社会全般の共通認識が構築されておるからのう、
人間は目に見える世界ではなく推論を働かせた世界のことも意識できます。ただそれが人々を納得させる理論であればと言う条件がつきますが。
例えば宇宙とか。深海とか、地球の内部構造とか、地震を起こすプレートとか、恐竜時代とか、ピテカントロプスとか。書き出したらいくらでもあります。
>霊的要素の多い話にはそれが少ないんじゃから、会話そのものが難しいんじゃて。
>それに、霊的な世界は、掴みきれず、常に揺れ動いとるしな。そうした土俵でしかも文章をもって語りあうのはまったく大変なんじゃて。唯物論という言葉についてもそうじゃわさ。
とうとうぼけ仙人さんの本音が出ましたね、私は上記において書かれたことが観念論と言っているわけです。
つまり自分では理解しているのだが、そのことを人に伝えることも難しいのじゃと言っていますが本人自身も何にも知らない、私にはそのように言っているように聞こえます。
なぜなら唯物論とは本質、つまり現在段階で肯定されたものが現在段階での真実であり。必ずそこに行くまでのプロセスが示されます。唯物論的考察にはそこに行き着くまでのプロセスが確実にあります。そして現段階で肯定された事実なり真理は、前段階においてはまだ日の目を見なかった理論なり、事実性が出てきたとき、それまであった以前事実としてあったものを否定します。そのとき否定された以前の理論なり事実が消え去り、否定に使われた新しい理論なり、事実性がその段階から肯定された真実になるわけです。そこに完全に否定と肯定があるというプロセスが読み取れるものが唯物論です。
では観念論とは何かということになりますと、肯定されたといっているだけの事実に行き着くまでのプロセスが何にも無いということです。つまりまだ肯定されていないということです。
ぼけ仙人さんが書かれていること、霊魂、霊的要素、霊的な世界、常に揺れ動いているとか、単なる言葉遊びをしているだけにしか過ぎません。もしできましたら、これらの言葉に行き着くまでのプロセスを示してください。単なる難しいというのではなく、万人が認めることのできるプロセスを示してください。
観念論というのは、いきなり本質を出しているのにもかかわらず、そこに行き着くまでのプロセスを示せないということにしかなりません。
ぼけ仙人さんが考えていること、観念論であるということを認めますか。
それから現在の脳外科とか心臓外科での手術、それらはそれまで使っていた技術(理論)に対し新しい技術(理論)が否定をしていき、あらたに新しい技術(理論)として確立したとき、危険のない手術となっていくわけです。また時間とともに新しい技術(理論)が出てきたとき、今までの技術は否定されます。常に否定、肯定が繰り返されていくとき、それは唯物論的思考方法の何物でもありません。考古学においても、生物学においても、経済学においてもそうですし、すべての学問が唯物的思考方法で形成されています。そこには必ず現在肯定されている事実にたどり着くまでのプロセスが明快に理論として書かれているか、語られているかです。
>神や、宗教についてはちょっと難しい部分があるから横に置いといて、端的に言えば霊界や霊魂の存在を認めない人たちじゃわな。あるいは広義に解釈すれば、霊魂や霊界があると認識したした側から見た、そうじゃない人たちの傾向と言えばよいか、はてまた、物質の「モノ」の部分だけを論じておる人たちかのう。また、霊界や霊魂はあるとする人たちを100とし、認めない人たちを0とすると、100から0までそのレベルは多様にあると思うわのう。現実には有る無しの二元論じゃないわのう。
そして、もうひとつは心の問題じゃわな。
>科学的に認められとらんといっても、あるものはあるわな。科学的立証ができず認められなかったが、後年、科学技術の発達によって立証されることも多いじゃろうて。
否定しとるわけじゃないが、現実に起きている不思議を、今一般的に知られている知識の範疇で論じても空しいわさ。
>あるいは、ある時、全く初対面の人が、ワシ自身しか知らんはずの、ワシの生い立ちをとうとうと語り、あの本、あの夢まで知っとったわな。後で聞いたら、憑依現象でワシの先祖が「ワシのために、これからワシに起きる多くの苦難、苦悩を乗り越えてくれとの願いでお越しになった」とのことじゃった。こうした現象を科学的に説明してほしいもんじゃわな。そして、こんな現象は幾らでもあるわのう。
>申し分けないけどな、縄文ビトさんが失礼に思おうと、ワシを狂人と罵ろうと、「霊魂はない。霊界など無い。死んだら何もない」と思いこんでおる人は、霊界へ行くとパニックになって痴呆状態へ陥るし、先祖や霊界人などを粗末に扱えば、本人や家族不幸への道行きとなって行くんじゃて。
もちろん、その表出には遅速があるために、ぱっと見てぱっとはわからんけどな、十年、二十年のスパンで見ればはっきりするわな。
>じゃによって、母上が死んだと仮定した場合、霊魂もなく、霊界もないとすれば、そこから次のアクションはないじゃろうが、あると知っておる我々から見れば、霊界の母上に対して何と無慈悲な態度じゃろうと思えるし、ましてや霊界には苦しい世界もあるでな、もしそこに落ちていたら、それは、世話になった人が苦しんでいても知らん振りの極悪人としか思えんのじゃて。そして、その場合、その苦しむ人を救う方法を、多くの人は知らんわな。どうやって学ぶのかのう。死んだ後からが本当の親孝行とも言うがのう。
>また、人を苦しめたり、恨みをかうような行為をした場合、霊界でまた逢うことになるんじゃからな。これは辛いぞ。霊界や霊魂を知る人間は、徳(善)を成そうとは思うが、恨みが怖いから人を悲しませる行為は避けようとするもんじゃわさ。じゃから、犯罪や非道な行為は起きない方へシフトするのが自然じゃて。
>例えば、葬式は、お前は霊界へ行ったぞ、お前は死んだんだぞとする自覚を持たせる儀式であり、参列した人々からの生前からの感謝や哀悼の心は、死者への愛のプレゼントであり、死者の霊魂が向上させるエネルギーとなるんじゃわのう。それは観念論じゃなくて、厳然たる摂理なんじゃて。
>あるいは日本古来からの伝承的言葉や風習の中には、迷信も多いが真理をついたものも多く、基本的にワシが言うところの摂理に沿った生活が成されていたように思えてならんわさ。「誰も見てなくとも、おてんとさんは見とるから、悪いことはするな」「先祖を悲しませないように」「人を呪わば穴二つ」「一寸の虫にも五分の魂」「情けは人の為ならず」「因果応報」「実るほど頭をたれる稲穂かな」などなど…
こうした心の動きが、物質をモノとしか見ない考え方によって席巻されつつあると思うんじゃがどうじゃろうか
>くどいようじゃが、じゃから、霊魂や霊界を否定しょうが、無視しようがそれはその人の勝手じゃわな。そこへ棹差そうとは思わんけれど、霊魂を認めない人が、突然特殊な現象に遭遇した時、ひょっとして思い出してくれて心が変るなど、いつか、どこかで参考なればそれはそれでワシの喜びじゃて。あるいは唯物志向レベルが1ポイントでも唯心へ移動したり、そんな世界もあるのかなどと感じてもらえばよいとか、そんな程度の期待じゃわな。
>この地球は、霊魂の学びの場じゃて、玉石混交、善悪混在、意識レベル混沌の世界で何を学び、何をなしたのかが問われており、生まれた時より霊魂が向上したものだけが、成功者じゃて。貨幣も地位も、権力も空しいもんじゃて。(貨幣や地位、権力を卑しいとか、無視するわけでもないんじゃぞ
>貨幣も車も宗教団体も、どんな組織もどんな科学技術、権力も、悪の心が使えば凶器になるし、心あるものが使えば万人が幸せになると思うとる。しかし、人の心から邪を追い出すのは極めてむずかしいから、いつの時代も形を変えて困難がつきまとう。夢を追いかけておるようなもんじゃが、その追う心も尊いし、それが魂を向上させる方法論かも知れん。
申しえ分けありませんが、私も宗教家という人たちとよく話をいたしますが、皆さん同じようなことを言います。単なる脅しとしか思えませんがいかがでしょうか。
そしてこのような語りかけがいつまでも続くとは考えられませんので、やがて種が尽きていく、そこから本当の宗教の話ができると考えています。
ぼけ仙人さん次は本当の話をいたしましょう。