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(回答先: Re: 秋元健一さん埋もれてしまいそうでしたので新規に入れます 投稿者 秋元健一 日時 2006 年 8 月 07 日 23:04:15)
>縄文ビトさん丁寧なレスありがとうございます
いえ、こちらこそどうもです、ちなみに私も縄文の全体的な面は把握しておりますが、個々の面についてはあまり確実なものはもっていません。
私があるところで入れた文章を参考にさせていただきます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%90%BE%E5%8F%96 搾取という項目です。
まず縄文時代をどう捉えるかということになります。私は最初考古学の世界的な面から見ると農耕が発生していない縄文時代は後期旧石器として捉えていました。ですが植物栽培には進みませんでしたが、栽培植物は既に手に入れていた、そこからある考古学者の人と話したとき、新石器時代として捉えないようだったら中石器時代として捉えたらどうかという意見を貰いました。
まずここから始めさせていただきます。この社会は世界にもまれな無階級・無階層の社会であり、家族関係の延長戦線にある親族社会であったと捉えています。
この無階級・無階層の社会に、階級・階層社会を持ち込んだのがいわば渡来人です。ここから日本の社会が変化をしてきたわけです。まずこれを基礎において考えていまきます。
このことを何も日本に留まらず世界的に当てはめて考えていきます。そのことによって平等な社会が壊され、そこから現在に至るまでの不平等社会になって来たのかを考えていきます。これが私のスタンスです。
>スレッドが新規になったので念のため僕の質問を再掲させていただきます
http://asyura2.com/0601/dispute24/msg/114.html
>> 天皇制は渡来人としての弥生人が縄文人を征服した後に打ち立てたものということになっているはず
>>★↑日本の考古学界でここまで断定している方いらっしゃるのでしょうか?
あと吉野ヶ里遺跡について…
>> 渡来系の人が先住民である縄文人を奴隷化した場所ではないかという考古学者もいます
>★とのことですが、どなたの説でしょうか?
これはだいぶ前に読んだことなのでと前の文章に入れときましたが。
>上記を踏まえて縄文ビトさんの発言にコメントさせていただきます
ちなみに僕は考古学の研究者ではありません
私も同じです。現在は貨幣論という文章を書くために経済を勉強しております、守備範囲があまりにも広くなっております。そこから余談ですがやっと「信用創造」というものがわかってきました。現在「信用創造なるもの」を語っている方たちは「信用創造」なるものがどうしておきるのかを理解していないで話しているということがわかってきました
>学生時代に基礎のみ勉強して脱落した人間です
おまけにそれは30年もむかしのことです(苦笑
>>現在吉野ヶ里遺跡での逆茂木は紀元300年時代のものが復元されているといえるのではないでしょうか。そこには紀元前300年のものではないといえます。確かそのことを書いた人は渡来人が最初日本の土地に足を踏み入れたとき、当然のこと採集・狩猟で糧を得ていた人達に農耕を教えていったといえます。
>★はじめに書いておくと、僕は吉野ヶ里遺跡について詳しいことは知りません
私は行って見てきました
>それゆえ、今回の議論を進める上で参考にできそうなものをweb上で拾ってみました
ここは画像の類も見ることができて、わりとわかりやすいかな、と思います↓
http://www2.edu.ipa.go.jp/gz/k-yda1/index.htm
私もこのサイトを見て話をしておりました。ここにある逆茂木は紀元300年の物を他の被葬者と同じように復元していると見ております。
>まず弥生時代の開始年代についての理解ですが、現状での日本の考古学界ではまだ実年代を確定できていないと言うべきかも知れません
ただ、縄文ビトさんの理解する年代より古いことは間違いなさそうです
以下に先年マスメディアに発表されて話題になった一連の研究を紹介します↓
http://www.rekihaku.ac.jp/press/sokutei.html
この千葉県にある博物館には時々行きます、年代測定ではこのことは理解しております。ですが今回吉野ヶ里についての話でしたので吉野ヶ里を参考にさせていただきました。
「紀元前 3 世紀から紀元後 3 世紀までの弥生時代は、日本で稲作の文化が始まり、定住文化が根付いた日本の文化の原点ともいえる時代です」 吉野ヶ里遺跡とはより引用 http://www.yoshinogari.jp/pages/info/info_1.html
>個々のページは専門用語が多用されているので理解しにくいかも知れませんが、学会のある部分では弥生時代の開始を前10世紀後半と見ているわけです
これは従来、縄文時代と考えられていた年代です
吉野ヶ里遺跡で出土した「前期初頭」の土器が具体的にどういった型式なのか知りませんが、従来「縄文土器」と考えられていたもの(つまり弥生時代開始期)より新しい時期のもののように見えます
逆茂木のことは http://www2.edu.ipa.go.jp/gz/k-yda1/k-ycb1/k-ysb4/IPA-yos200.htm に掲載されていますが、「斜面にある多くの柱穴は外に向かって斜めに穿たれたものが多く、防御のための逆茂木の遺構と考えられる」とされています
なんびとかを閉じ込めるための装置とはされていません
縄文ビトさんが示唆を受けた方の論文なり著作ではどのように記述されていたのか知りたいところです
>階級・階層性の渡来人による持込から、それまでの縄文時代からの社会から平和的な形での移行は考えられないと言うことでした。また反論できる文章をこれから探しておきます。
>>また渡来人は階級・階層社会で生きていた人達です。彼らが平等に縄文人に接したと考えますか?。
★失礼ですが、縄文時代と弥生時代の過渡期に渡来人がいたかどうか、またどれほどの規模であったかは全く証明されていないはずです
http://www.bund.org/opinion/20040915-2.htm 日本人は縄文毛糸弥生系
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E6%9D%A5%E4%BA%BA ウィキペテイア「渡来人」参照 http://www.museum.kyushu-u.ac.jp/WAJIN/152.html 渡来人のルーツ
>水田稲作農耕が渡来人によってもたらされたと考えるのは一つの仮説としては成り立ちますが、そもそも新しい技術やその他を含む文化の伝播は「渡来人」的な外部の人々によって発生するとは言えません
具体的な論考について紹介することができませんが、日韓の考古学会では朝鮮半島南部と北九州一帯との交流は縄文時代から行なわれていたと考えているはずです
それは交易であって征服や支配という関係ではありません
日韓間での人的な交流、物品の流通は一般に想像されるよりはるかに頻繁に実現していたのかも知れません
>>現在ある逆茂木は最初期から見れば600年という時間の経過が有ります。当然のこと武力による土地の征服が始まっているわけです。それは外部からの侵略から守る必要があるわけです。このことから現在の逆茂木を見て600年間を語ることは出来ないと考えます。
★すでに書いたように吉野ヶ里遺跡の防御的な性格は、対縄文人を想定できません
「倭人」同士の問題です
これも紀元300年という時代の復元と説明しております
>>それと考古学(歴史)には政治的な思惑が絡みます、現在の社会を擁護するために御用学者が真実を隠すという面を多々見受けられます。そこから時代が経てば考古学の世界において事実がはっきりするという前提で書いたつもりです。
★僕は歴史学全般、考古学も含めて政治の動向と全く無縁でいられるとは思っていませんが、たとえば日本の考古学界で縄文ビトさんが想定するような「御用学者」とは誰でしょうか?
徐々に出していきます。三内丸山で高床式をおしたのが 確か小山修三先生だと聞いておりますが。
国立民族学博物館第四研究部助教授(1976)
国立民族学博物館第四研究部教授(1991)
国立民族学博物館民族学研究開発センター教授(1998)
国立民族学博物館民族社会研究部教授(2000)
総合研究大学院大学名誉教授(2002)
国立民族学博物館名誉教授(2002)
吹田市立博物館館長(2004)
またこの先生の縄文都市を掘るという、岡田康弘さんの書かれた「三内丸山から現日本が見える」から引用させていただきます。
民族考古学が復元する縄文社会P149
北西海岸インディアンは人口が300とか500という規模という社会を営んでいたと言われます。三内丸山を見たとき、新しいモデルにするとすればここではないかと思われました。P150
ハイダの暮らし(p151)前略=ヨーロッパ人がこの地に入植してくる200年ほど前まで、栽培をおこなわず狩猟・漁労・採集にもとづく生活をしていました。中略 また、交易もハイダ族にとって大きな役割を果たしていました。人々はカヌーによって近隣の部族や白人と交易を行い、食料だけでなく、鉄器や毛布など、さまざまな生活必需品も物々交換や時には略奪によって手に入れていたのです。
ハイダ続の社会には、階級がありました。狩猟採集社会で最も明確な階級がんあったという希有な例です。トーテムポールをつくるおよそ三割の貴族、人口の半分を占める平民、それと戦争の捕虜として連れてこられた奴隷の層があります。この社会では、主に貴族階級を中心として行われる祭りが宗教的に大きな意味を持っていました。 引用終わり。
これは小山修三先生が三内丸山を語ったとき例として書いた文章です。
ここにはある見方は偏った見方であり、これらの人が学会の上部を占めている限り正当な評価ができないと考えています。つまり階級・階層社会が古代からあったという前提に立っている論議だからです。私から言わせれば一部の人間が外部との接触(交易を通じ)からそれまでの親族社会を宗教により徐々に壊し階級・階層社会を形成していったと考えます。つまり伝播です。
>>高床式建物は弥生時代からではないかということでどう考えますか。
★さぁ、なんとも言えませんが、縄文時代に高床式建物が必要な事情があれば存在してもおかしくはないと思います
以上、とりあえず気付いたことを書きなぐってみました(汗
>>秋元健一さんは考古学を理解している方とお見受けいたしましたのでこれからも宜しくお願いいたします。また私も出所を調べておきます。
★こちらこそよろしくお願いいたします
長くなりましたので疲れました。次は階級・階層社会がなぜ発生し、現在どのようになっているのかを論じましょうか。
新しい理論を打ち立てれば全てはそこから始まります。例えば消費者金融に支配されている者は現在の奴隷ですなどというように。