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(回答先: 私のボケ防止です 投稿者 縄文ビト 日時 2006 年 8 月 11 日 05:28:08)
弥生時代の奴隷的存在の有無については、細かい問題は別にしてもすでに奴国王の朝貢品の中に「生口」が含まれたことでほぼ了解済みではないでしょうか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E5%8F%A3
↑ここでは「生口は元来、捕虜を意味する語であるため、捕虜を起源とする奴隷的身分」とされていますが、当時の乳幼児の高死亡率を前提とすれば、僕は何らかの目的で他集団から乳幼児のうちにさらって来て育てたりしたこともありうると思っています
これも前に書いた「略奪」に含まれます
ま、これはあくまでも可能性のお話で、考古学的に立証することは難しいですけど…
「宗教による縄文人の征服」については、結論を先に言えば却下です
水田稲作文化を持ち込んだのが渡来人であったとしても、彼らが北部九州の縄文人と敵対的な関係であったことを裏付ける証拠は発見されていないと思います
それどころか福岡県の板付遺跡などでは、縄文晩期とされる土器が最古式の弥生土器と共伴して発見されることから、縄文人と渡来人との間で婚姻関係などがあったことの表れではないかと考える研究者もいたと記憶します
http://museum.city.fukuoka.jp/je/html/251-260/253/253_01.htm
#↑ここには婚姻説は載ってません
地域的な差もあるでしょうが、日本の考古学界では縄文時代の土器製作は、一般的には女性であったと考えていると思います
ほかにも突っ込みどころは満載のような気もしますが、観念的なお話にあまり踏み込んでも泥仕合になるだけだと思うのでやめます
>三内丸山遺跡の縄文文化 「高床式建物について」
★僕は現地に行ってないんで確かなことは言えませんが、掘立柱建物が単なる柱列であったか、平地式建物であったか、はたまた高床式倉庫であったかは、「柱穴の周辺及び内側には、生活の痕跡が発見できなかった」こと以前に、発掘調査の遺構確認面が当時の生活面(つまり当時の“地面”)に近い場所だったのかどうかが気になります
わかりやすく説明する自信がありませんが、遺跡の発掘をすると、ほとんどの遺跡では当時の生活面は残っていません
風雨による侵食や、その後の農地化による開墾・耕作、山林化による表土層への変質などなど、意外に遺存しづらいことが想像できると思います
例外的なものとしては火山活動の降灰による廃絶、洪水による廃絶などがあります
ボンペイは火山活動に起因する廃絶ですね
静岡県の登呂遺跡は洪水による廃絶だったんじゃなかったかな?
あとちょっと特殊なものとしては、古墳造営によるもの
墳丘が残っている古墳の下には、古墳造営当時の旧地表がわりときれいに残ってます
まぁ、そんなわけで三内丸山遺跡の掘立柱遺構ではどうだったのか?
大湯の環状列石周囲に存在した掘立柱遺構もその辺の確証がなかったんでああいう形で落ち着いたんじゃないでしょうか?
ただ、最近は縄文時代の陸稲耕作の可能性が高まってるようだから、果樹栽培以外を前提にすれば高床式倉庫あるいは高床式建物が存在してもおかしくはないと思います
>現在の不平等社会を古代からのものであつたということで現代を肯定している人たちがいるということです。
★僕は考古学研究者が縄文時代に階級なり階層社会の存在を想定すること自体は、なにも「現代を肯定」する目的で行なっているとは思いません
ちょっとふざけた書き方になりますが、「歴史は理論によって作られるんじゃない、(発掘)現場の資料で作られるんだ!」と…
もちろん同じ資料でも解釈次第でいかようにも妄想は膨らむんですけど…(汗
ちなみに僕は、大学一年生のときにE・H・カー(訳・清水幾太郎)の岩波新書『歴史とは何か』発行所:(株)岩波書店 1975.8.10第20刷 を読まされた口です
いまでもたまーに読み返します