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(回答先: 第六章 共通点 1 神示と霊訓 神の計画 錦の機(はた)の仕組/世の大峠(立替と立て直し)/政治・経済/春の到来/神の奇 投稿者 謝寅 日時 2004 年 12 月 17 日 19:23:52)
自由意志
信仰は全く自由なものだ。神の道では取り違ひと慢心とが一番恐ろしい。取り違ひしてゐると神の目からは間違いきったことでも、自分は正しい信仰だと思って進んで行き、他からの忠言も戒めも聞かない。
そして行く所まで行って遂に突き当たって鼻を打ってヤット気が付く。そして後を振り返って初めて背後の光明を見て驚き正道に立ち帰るのである。
ともかく間違ってゐても神から離れぬことが大切である。やがては必ず自分から気が付くことが有る。間違ってゐるからといって矢鱈に攻撃しても詰まらない。実は皆誰でも取り違ひのないものはない。今日の所、まだ本当に分かったものは一人もないのだ。
-『玉鏡』/出口王仁三郎著より-
最後の審判は、閻魔大王が罪人を裁くと同様なる形式に於いて行はるると、考えて居る人が多いやうだが、それは違ふ。天国に入り得るものと、地獄に陥落するものの標準を、示される事である。この標準を示されて後、各自はその自由意志によって、自ら選んで天国に入り、或いは自ら進んで地獄に落つる。それは各自の意志想念の如何によるのである。
-『水鏡』/出口王仁三郎著より-
●この方の元へ引き寄せて目の前に楽な道と辛い道と作ってあるのぢゃ。気付けてゐて下されよ、どちら行くつもりしゃ。
●ミタマ相当にとりて思ふ様やりてみよ、行できればその通り行くのぢゃ。神に気に入らんことスコタンばかりぢゃから、引っ込み思案せずに堂々とやりて下されよ。こんな楽な世になってゐるのぢゃ。屁も放れよ、沈香もたけよ、ふらふらして思案投げ首この方嫌ひぢゃ。
●人に云ふてもらっての改心では役に立たんぞ、我と心から改心致されよ、我でやらうと思ってもやれないのざぞ、それでも我でやって鼻ポキンポキンか、さうならねば人民得心出来んからやりたい者はやってみるのも良いぞ、やってみて得心改心致されよ
●これまで申しきかせても言ふこときかぬ人民多いぞ、きく耳ないならば思ふようにやって見なされ、グルグル廻って又はじめからぞ、人民は神の中にいるのであるから、いくら頑張っても神の外には出られん、死んでも神の中にいるのぞ、思ふさまやりて得心改心、われがわれがで苦しむのも薬と申すもの。
●この方の道、悪きと思ふなら、出て御座れ、よきかわるきか、はっきりと得心ゆくまで見せてやるぞ。何事も得心させねば、根本からの掃除は出来んのざぞ。
●これほどことわけて申しても得心出来ないのならば、得心の行くまで思ふままにやりて見なされよ。そなたは神の中にいるのであるから、いくら暴れ回っても神の外には出られん。死んでも神の中にいるのであるぞ。思ふさまやりて見て、早よう得心改心いたされよ。
●人間と云ふものは奇跡見ても、病気になっても、中々改心できんものぢゃ。死後の生活がハッキリ判っても、未だ改心出来んのぢゃ。それは外からのものであるからぢゃ。マコトの改心は、中の中のキいただいて、ほっこん改心出来ねばならん。
●人間は、色とりどりそれぞれの考へ方を与へてあるのざから、無理に引張ったり、教へたりするでないぞ、今あるもの、今生きている者は、たとへ極悪ざと見えても、それは許されてゐるのであるから、あるのであるぞ。他を排するでないぞ。
●邪魔せん様に、分からん臣民見物して御座れ。ここまで知らして目覚ん臣民なら手引いて見てゐて御座れ。見事仕上げて見せるぞ。スズメちうちうカラスかうかう。
●神示はその時の心にとりて違はん。磨けただけにとれて違はんのであるから我の心通りにとれるのであるから、同じ神示が同じ神示でないのざぞ。
●人民は早合点、我よしで神示よむから皆心が出て了ふて誠知らした事毒とならん様気を付けておくぞ。
-いづれも『日月神示』/岡本天明伝達より-
モーゼスの霊訓
その摂理は、もし犯せば不幸と損失をもたらし、もし遵守すれば進歩と充足感を与えてくれます。同時に人間は、かつて地上生活を送った霊の指導を受けます。その霊たちは人間を指導・監督すべき任務を帯びているのです。ただし、その指導に従うか否かは、当人の自由意志に任せられています。
人間には善悪の判断を下す準備が先天的にそなわっており、その判断に忠実に従い、そして迷うことさえなければ、かならずや真理の道へと導いてくれるはずのものなのです。善悪の判断を誤り、背後霊の指導を拒絶した時、そこには退歩と堕落があるのみです。進歩が阻止され、喜びの代わりに惨めさを味わいます。罪悪そのものが罰するのです。
シルバーバーチの霊訓
運命の十字路にさしかかる度毎に、右か左かの選択を迫られます。つまり苦難に厳然として立ち向かうか、それとも回避するかの選択を迫られますが、その判断はあなたの自由意志にまかされています。もっとも、自由といっても完全なる自由ではありません。その時点において取りまかれている環境による制約があり、これに反応する個性と気質の違いによっても違ってくるでしょう。
地上生活という巡礼の旅において、内在する神性を開発するためのチャンスはあらかじめ用意されているのです。そのチャンスを前にして、積極姿勢をとるか消極姿勢をとるか、滅私の態度にでるか利己主義に走るかは、あなた自身の判断によってきまります。 霊的進化の階段を一段上がるごトに、その分だけ多くの自由意志を行使することを許されます。あなたは所詮、現在のあなたを超えることは出来ません。そこがあなたの限界といえます。
が同時にあなたは神の一部であることを忘れてはなりません。いかなる困難、いかなる障害も、かならず克服するだけの力を秘めているのです。霊は物質にまさります。霊は何ものにもまさります。霊こそ全てを造り出すエッセンスです。なぜなら、霊は生命そのものであり、生命は霊そのものだからです。 では一体どうあって欲しいとおっしゃるのですか。絶対に過ちを犯すことのないように拵えられたロボットの方がいいとおっしゃるのですか。それとも、罪も犯せば聖人君子にもなれる可能性をもった生身の人間の方がいいと思われますか。ロボットは罪を犯さないかも知れませんが、自由意志も、従って進歩もありません。
それでもいいのですか。進歩するためには成功と失敗の両方が必要なのです。失敗がなければ成功もないからです。人生は常に相対的です。困難と矛盾対立の中にこそ進歩が得られるのです。ラクだから進歩するのではありません。難しいからこそ進歩するのです。その苦しい過程が魂を鍛え、清め、そして成長させるのです。
光のないのが闇であり、善でないのが悪であり、知識の無いのが無知であるわけです。宇宙全体が光になってしまえば、それはもはや光ではなくなります。相対的体験の中にこそ人間は進歩が味わえるのです。ドン底を体験しなければ頂上の味はわかりません。苦労して得たものこそ価値があるのです。ラクに手に入れたものはそれなりの価値しかありません。 神は人の内部に種子を置き給うた。人は園丁である。その種子が花を開くことができるか、またその時期は何時か、これはひとえに本人の努力いかんにかかっている。種子を闇の中に置き、光を与えず、魂の光である愛と奉仕を注がなければ、内在の神性は少しも大きくならないのである。
私たちはどうあがいたところで、その神の懐の外に出る事はできないのです。私たちもその一部を構成しているからです。どこに居ようと私たちは神の無限の愛に包まれ、神の御手に抱かれ、常に神の力の中に置かれている事を忘れぬようにしましょう。
自由意志。この章はそれほどでも無いですが、このサイトに書かれている内容は総て個人的な意見であり、うのみにされないようにと、断りを入れてあるのもこの為です。無論、わざわざ間違いと判ることを載せるつもりは無いですが、何処かに間違いの混入している可能性は、100%あると思われます。
たまの宝と物質の宝
形の上の宝に富むよりも、真誠の道の智慧に富むものとなるべし、真誠の道に富む者は、亡ぶことなく衰ろふることなし。
-『裏の神諭』/出口王仁三郎著より-
『是ほど事を分けて俺が従順(おとな)しく出ればのしあがり、何と云う事を致すか。最早きさまは改心の望みがない。サァこの拳骨が一つ触るや否や、きさまの命はそれきりだ。俺の女房のお伴をさしてやらう』
と今や打たむとする時、六つになった娘のお初はその場に駆け出で、
『お父様、まぁ待っておやりなさい。さうしてこのお金はこの人に遣って下さい』
『お前が成人してから、好い婿を貰ひ、楽に暮らせるやうにと思って、夜昼働いて貯めておいたお金だ。この金は詰まり俺のものぢゃない、心の中で既にお前にやってあるのだ』
『お父様、そんなら今私に下さいな』
『オオ何時でもやる。今か、今やって置こう』
『そんなら貰ひました。これこれ三人のお方、私がこの金を皆にあげるから持って帰りなさい。その代わりにこれで何なりと商売をして、もうこの先はこんな恐い商売を廃めなさい。お父様、どうそこの三人を助けてやって下さい』
と手を合はす。
『よしよし、ヤァ命冥加な三人の奴、娘の云ふ事をよく聞いて、この金をもって何とか商売をして、今後は悪い事をすな。サァ早く持って帰れ』
三人一度に頭を下げ、
『誠に済まぬ事で御座いました。そんなら暫く拝借して帰ります。きっと是はお返し致します』
『貸したのでは無い、進上(あげ)たのだから返しては要りませぬ。こんな恐いものがあると、私の将来のためになりませぬ。アゝお父様、これで気楽になりました。よう私を助けて下さいました。このお金があるばっかりで、毎日ひにち恐くって寝るのも寝られませなんだ。お母様もこのお金のために心配して、あんな病気になったのです』
三人はお初の渡す金包を取るより早く、雲を霞とこの場を逃げ去る。杢助はお初を抱き、涙に暮れながら
『アゝお初、有り難い。金銀よりも何よりも貴い宝が手に入った。あゝ惟神霊幸倍坐世(かんながらたまちはへませ)』
と合掌し、嬉し涙に暮れている。
-『霊界物語』/出口王仁三郎口述より-
●今蒔いた種、今日や明日には実らんぞ。早く花が見たく、実が欲しいからあせるのぢゃ。人間の近欲と申すもの。神の大道に生きて実りの秋まてよ。まいた種ぢゃ。必ず実る。誰も横取りはせんぞ。万倍になってそなたにかへると申してあろう。未来に燃えつつ現在にもえよ。神相手に悠々と天地に歩め。
●金は使ふもの。使われるものでないことよく判って居ろうが。御苦労のことやめなされよ。
●神が人間の心の中に宝をいけておいたのに、悪に負けて仕まうて、それで不足申していることに気づかんか、一にも金、二にも金と申して、人が難儀しようがわれさへよけらよいと申しているでないか。
-いづれも『日月神示』/岡本天明伝達より-
モーゼスの霊訓
真の博愛主義者とは、時々刻々、神へ近づきつつある者のことです。絶え間ない努力によって永遠・不滅の同情心を広げつつ、その不断の同情心の行使の中に、汲めども尽きぬ幸福感を味わいます。博愛主義者と求道者、すなわち人類愛に燃える人間、偏見のない真理探究者こそ神の宝、比類ない価値と将来性に満ちた珠玉です。
前者は民族の違い、土地の違い、教義の違い、名称の違い等の制約に捉われることなく、一視同仁、全人類を同胞として、その温かい心の中に抱き込みます。すべての人間を友として、また兄弟として愛するのです。思想のいかんを問わず、ひたすらその者の必要とするものを洞察し、それに相応しい進歩的知識を授けることに無上の喜びを覚える―こういう人こそ真の博愛主義者です。
もっとも、しばしば似て非なる博愛主義者がいます。自分の名声を広めんがために、自分に同調する者、媚びへつらい施しをする者のみを愛します。このような似非博愛主義者は、その真実の印である”博愛”の名を傷つける者というべきです。
シルバーバーチの霊訓
霊的な宝はいかなる地上の宝にも優ります。それは一たん身についたらお金を落とすような具合になくしてしまうことは絶対にありません。苦難から何かを学びとるように努めることです。耐えきれないほどの苦難を背負わされるようなことは決してありません。解決できないほどの難問に直面させられることは絶対にありません。
何らかの荷を背負い、困難と取り組むということが、旅する魂の当然の姿なのです。 物質にばかり目を向けている人は、大きな誤りを犯している。その人は幻影を追い、永遠を忘れているのだから。これは単純な真理なのに、地上はまだこのことを知らない。 地上には、私達霊魂の力で動かせない障害は無い。ただしそうすることが法に叶っているならば。時には、人の背負う十字架があまりに重く、私は自分の進歩を諦めても、その重荷を取り除いてあげたいと思う。だが、よく覚えて貰いたいことは、人がその十字架を背負い、その重荷から教訓を学び取ることは、もっと大切なことだ。人は現世だけでなく、もっと永遠の目をもって、物事を考えてみねばならない。 人はその内部に至高の富を所有している。地上には、これと比べられる富は一つもない。皆さんはこの富を探しなさい。貴方の胸の奥深く、土にまみれて潜んでいる宝石を、霊魂を発掘しなさい。
霊と体(火と水)
●金好きなら金を拝んでもよいのぢゃ、区別と順序さへ心得て居れば何様を拝んでもよいのぞ。金を拝めば金が流れてくるぞ。金を拝み得ぬイコヂさがそなたを貧しくしたのぢゃ。赤貧は自慢にならん。無神論も自慢にならん。清貧は負け惜しみ、清富になれよと申してあろうが。清富こそ弥栄の道、神の道、大日月地大神のマコトの大道ぞ。
●金がよければ金拝め、人がよければ人拝めよ。神がよければ神拝め。
●人間のみならず、総て偏してならん。霊に偏してもならん。霊も五体も五と申してあろう。ぢゃが主は霊であり体は従ぞ。神は主であり人間は従であるぞ。五と五と同じであると申してあろう。差別即平等と申してあろう。取り違ひ禁物。
-いづれも『日月神示』/岡本天明伝達より-
シルバーバーチの霊訓
神法に逆らって生きようとする者は、自ら辛い収穫を刈り取る者。神法に従って生きる者は、物質的にも霊的にも豊穣と幸福の収穫を、その手で刈り取る者である。 神は物質的なものと、霊的なものと、ともに支配し給う。神の王国には、両者の差別は無い。物的生命と霊的生命を差別してはいけない。両者は別個の分離したものではない。物は霊に作用し、霊はまた物に作用する。両者はともに、一なる不可分の生命の両面である。