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(回答先: 第六章 共通点 1 神示と霊訓 神の事 人=神の分霊/独一神/氾神(大本教・民間信仰・民俗) [99-03-18] 投稿者 謝寅 日時 2004 年 12 月 17 日 19:39:50)
*自由意志と魑魅魍魎と矛盾*
神諭はそのどれもが、幾通りもの解釈が可能であると、書かれています。それは一体どうしてなのか?もうちょっと判り易くても良いではないかと思うのですが、ここの解釈部分にも、人間の自由意志に委ねられている気がします。
大本神諭には、「善と悪の鏡を出すところ」と書かれてありますが、よくよく考えて見ると、本当に大本内部でも、外部でもその神諭の解釈によって、トンでもない方向に行ってしまった人達が、結構居る様ですから、実に言い得て妙なのです。
日月神示上にも「たとへ神の言葉ざとしても、心して怪しと思ふものは、一応は考へよ。」という個所がありますが、これは魑魅魍魎な、色々雑多な情報に惑わされるな、という意味かも知れませんが、日月神示自体の事も指している気がします。余り熱を上げると確かに妙な事になって仕舞い勝ちの文面が、多々ある様です。
もっとも、それも矢張り鏡としての意味もありますし、明治維新の後の「日本の夜明け」として誰もが喜んだ時代で、尚且つ現代ならば長い歴史の中で冷静に見ることが出来ますから、高見から「ああ、こんな事やってる」と批評も出来ますが、もし仮に自分がその時代に生きていたら、これら神諭類を今と同じように感じるのか、自信の無いところです。
自分は、電車の吊り革広告にあった、某学習塾のキャッチコピーを発見したのですが、そのコピーには記憶によれば大よそ次の様な意味です「何もかも教えてしまうのではなく、問題解決のヒントを与え、子供達が自らの力で問題を解く様にする、これが本当の教育ではないでしょうか?」
という文面を見たときは、ああ神示の解釈もこういった面があるかも知れないとも思いました。が、霊訓などには、以下の記述がある様です。
モーゼスの霊訓
めいめい最初から自分自身の理想が出来ており、経典の中から選り出した啓示を以って、これを裏書きしたまでである。ただの一つとして、啓示の全部を承認するものはない。何となれば、啓示全部が首尾一貫したものでないからである。
かるが故に、啓示の他の章節を選び出した人達と、鼻を突き合わせた時には、文字の意義を歪曲して、勝手次第な解釈(?)を加えるから、すべてがサッパリ訳の判らぬものとなり、折角その啓示を送った霊達、又その啓示を取り次いだ預言者達の真意は、全然損なわれてしまうのである
かくの如くして啓示なるものは、徒らに宗派的論