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(回答先: 第六章 共通点 1 神示と霊訓 安心立命/内在の天国(大本教・民間信仰・民俗) [99-03-18] 投稿者 謝寅 日時 2004 年 12 月 17 日 19:34:29)
- 人=神の分霊 -
世の中の総ての人を敬愛すべし。人は皆神の分身分霊にして、即ち神の珍の御子なれば、人を敬愛するは神を敬愛し奉るに等し。
-『裏の神諭』/出口王仁三郎著より-
活物(いきもの)の、心の性をきわむれば、神の千別(ちわ)きし霊(たま)の御光り
-『霊界物語』/出口王仁三郎口述より-
●神の子は神として自分養ふ事も、つとめの一つであるぞ。取り違ひすると大層な事になるから、気つけておくぞ。
●神は人間、人間は神であると申してあろう。人間の極まるところが神であるぞ。人間は神の土台ぞ。この道理判るであろうが。
●神は人となりたいのぢゃ。人は神となりたいのぢゃ。人は神の入れ物、神は人のいのち。
●地(くに)の日月の民とは臣民の事であるぞ、臣民と申しても今の様な臣民ではないぞ、神人共に弥栄の臣民の事ぞ、今の臣民も掃除すれば九二(くに)の一二(ひつぎ)の神様となるのざぞ、自分卑しめるでないぞ、皆々神様ざぞ。
●肉体は親から産まれたのざから、親に似ているぞ、霊は神から産まれたのざから、神に似ているぞ。
●神から出たものは神に決まっているぞ。
●尊ぶこと今の臣民忘れてゐるぞ、神ばかり尊んでも何もならんぞ、何もかも尊べば何もかも味方ぞ、敵とうとべば敵が敵でなくなるのぞ、この道理判りたか。臣民には神と同じ分霊(わけみたま)授けてあるのざから、磨けば神になるのぞ。
●どこに居ても助ける臣民行って助けるぞ、神が助けるのでないぞ神助かるのぞ、臣民も神も一緒に助かるのぞ、この道理よく腹に入れてくれよ。
-いづれも『日月神示』/岡本天明伝達より-
シルバーバーチの霊訓
皆さんは、すべて神の分身である。神は次のように言い給う。「ここに私のすべての法がある。そこに、汝のうちに私の分身がある。汝の傍らには、この世を完全にできる一切のものが備えられている。私は汝にすべてのものを与えたのだから。
汝は善でも悪でも、好きなものを選ぶことができる。汝は私の法に従うもよし、また従わぬのも思いのまま」 あなた方の内部には、偉大な霊性が宿っている。また、人は幾多の進化過程を経て、今日に至ったのだから、誰でもその内部には、動物性の痕跡が残っている。しかしながら人間内在の霊性こそは、どんな遺伝や痕跡にもまして偉大なものであり、もし貴方が、それをちょっと働かせ発揮しさえすれば、貴方はまるで、地上を神の様に歩くことも可能なのである。
人は全て、一人一人が神の分身であり、一人一人が神の御技と力と愛と知とを、担うことのできるものである。仮に貴方が弱い人に手を差し伸べれば、神の力はたちまち貴方を通じて、働くようになるのである。
決して、人が神であり、神が人である事を忘れてはいけない。神のものである力、すなわち貴方の中に在る力、この力あればこそ、貴方はいかなる物質にも勝って、それらに犯されるものではない。
これがまさしく、一切の悪をしりぞけ、病気を克服して、あらゆる障害と戦うことのできる力である。しかしこの力を用いる者の数は極めて少ない。昔イエスもそのことをこう教えている。「天国は汝らの内にあり」と。
-独一神-
祈りは天帝にのみすべきものである。他の神様には礼拝するのである。私はそのつもりで沢山の神様に礼拝する。そは恰(あたか)も人々に挨拶するのと同様の意味においてである。真の神様はただ一柱しかおはしまさぬ。他は皆エンゼルである。
-『水鏡』/出口王仁三郎著より-
耶蘇にしても釈迦にしても、人類が生んだ最も偉大なる聖者であることに何ら疑ひの余地は無い。しかし斯かる偉人の優劣を比較論争して居る暇があったら、どちらでも良い、その百分の一の人格にでも自己を磨き上げることがより尊い事である。
ニ千年も三千年も前に世を去った人々の思想を色々と詮索する事が無用とは言わないが、それよりも目の前にある少しでも立派な人の美点を学んで自分自身の魂を向上させる事が、より一層大切な事である。
自分の魂を磨く事を忘れて大聖人の教えを彼これ論ずるのは天を恐れざる不虔の行為である。信仰なるものを偉人崇拝と同一に考へてはならない。
-『惟神の大道』/出口王仁三郎著より-
まめ人の、神を忘れて只(ただ)我を、あがむる事の如何に苦しき
求むべき、ものを求めず只我に、権威を強ゆる、人恐ろしも
-『霊界物語』(余白歌)/出口王仁三郎口述より-
シルバーバーチの霊訓
イエスを礼拝するのは誤りである。礼拝は神に対してのみなされるべきもので、その使者に対してなすべきものではない。 …そのお言葉はあり難く頂戴いたしますが、いつも申し上げておりますように、私はいかなる礼も頂きません。指導霊や支配霊を崇拝の対象とする傾向に対して、私は断固として異議を唱えます。
-氾神-
ここに火打ち石と鐘とあって、これを打ったならば火花が出ます。即ちこの中には火になるといふ素質を持っておる、これが天之御中主神の霊(※天帝・ゴッド・根源神)である。神は万物普遍の霊でありまして、人は天地経綸の主催者である。火打ち石と鐘とをカチンと打ち合わせると火が出る。それを火口につけると、それから世界中を焼くだけの仕事が出来るのでありますこの火の出た輝きといふのが神であります。
-『王仁文庫』第二輯/出口王仁三郎著より-
霊と精霊とを混同して考へて居る人があるが、それは大変な間違ひである。霊は万物に普遍して居るので、この火鉢にでも鉄瓶にでも乃至は草花にでもある。もし霊が脱けてしまへば物はその形を保つ事が出来ないで崩壊してしまふ。
非常に長い年数を経た土器なぞが、どうもしないのにくぢゃくぢゃに崩れて仕舞ふのは霊がぬけて仕舞ったからである。鉱物、植物皆霊のある間は、用をなすものである。精霊と云ふのは動物の霊を指すのであって、即ち生魂である。
-『水鏡』/出口王仁三郎著より-
●山は神ぞ、川は神ぞ、海も神ぞ、雨も神、風も神ぞ、天地みな神ぞ、草木も神ぞ、神祀れと申すのは神にまつらうことと申してあろが
●神の国には神も人も無いのざぞ。忠も考もないのざぞ。神は人であるぞ。山であるぞ、川であるぞ。めである。野である。草である。木である。動物であるぞ。為すこと皆忠となり考とながれるのぞ。
●そなたは、食物は自分でないと思うているが、食べるとすぐ自分となるではないか。空気も同様、水も同様ぞ、火も同様、大空もそなたぞ。山も川も野も、植物も動物も同様ぞ。
人間は横の自分ぞ。神はタテの自分ぞ、自分を見極めねばならん。自分をおろそかにしてはならん。一切を受け入れねばならんぞ。一切に向かって感謝しなければならんとも申してあろうが。
-いづれも『日月神示』/岡本天明伝達より-
モーゼスの霊訓
霊界は全体にくまなく広がっており、全存在に生命を吹き込み、動物・植物・野菜に至るまで存在を与えている。人間が実体があるかに思っているものも、その霊という実在の影に過ぎない。霊とは生命であり、実在であり、永遠不滅の根源的要素なのである。
この霊が人間に宿っている様に、すべての物質に宿って生命を賦与している。天体をそれぞれの位置を保たせ起動上を回転させるエネルギーもすべて霊的なものである。
光といい、熱といい、磁気といい、電気というも、たった一つの霊的エネルギーの外皮に過ぎない。そのすべてに霊が内在しているのである。 ここで、神についての真実の概念を申し述べたいと思います。人間的属性を具えた人格神としてではありません。神々しい人間神としてでもありません。全宇宙に瀰漫し、普及する普遍的大霊としてです。今や人類は神についてより大きな概念を受け入れる用意が出来ました。
われわれは”愛”として顕現している神を説きます。愛―いかなる限界内にも閉じ込められない愛としてです。人間神の概念はかつての人類全体に行き渡っていた偶像崇拝の産物です。
これを改めることもわれわれの使命の一つです。神は一個の人格を具えた存在などではありません。どこかの一地点に鎮座ましますのではありません。総てに浸透し、無始無終に存在し、総べてを導き、総べてを愛されるのです。
肉体に宿る人間はどうしても限りある形態を具えた神を想像します。われわれが知り得た限りでは、神は限りある人格者ではなく、ましてや一個の人間となって誕生したこともなく、人間的影響力によって動かされることなど断じてありません。神は普遍的法則として働いています。 自然とは霊であり、自然法則も霊的である。あらゆる物的形態は―植物も動物も鉱物も―霊を宿す仮面である。人間も本来が霊であり、霊的なものが肉体を支えているのである。激しい新陳代謝を繰り返す細胞の固まりも、霊によって組織を保ち活力を与えられている。
霊が引っ込めば腐敗の一途を辿り、他の組織へと変わっていく。霊こそ人間であり、逆の言い方をすれば、人間は霊であるからこそ自然界の全創造物に君臨できるのである。
人間は他の創造物が所有していない霊的資質を賦与されているが故に、最も進化しているのである。
シルバーバーチの霊訓
神とは宇宙の法である。神はあらゆるものの内部に在り、万物はまた神である。魂は自らを知るが故に、神は魂を知り給う。雀は神であるが故に、神は雀を知り給う。神は震える葉の内部に在り給うから、震える葉は神である。 神とは宇宙のありとあらゆる内部に在り給う。神は大いなる霊であり、生命であり、愛であり、またありとあらゆる存在するものの総てである。
火打ち石を打って火花が出る。というのは当たり前の様に思いますが、王仁三郎氏の「火の出た輝きが神である」という様な発言は、一見して子供の妄想の様で、最初は何を意味するのか判りませんでした。
むやみに深読みしたりなどで、却って訳が判らなくもなるのですが、一応の現時点での意味として、モーゼス(インペレーター)の霊訓にそれらしき事が書かれてあります。
日月神示上には、人民産まれたら直ぐ、火と水の産湯にいれてもらうだろう、この火と水の御恩という事をいえば誰でもそんな事知っていると申すだろうが、その一厘の所はわかるまいがな、という意味の所もあります。