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Kは思うのだが、日本という国は基本的には「グループ主義体制」が合っているのではないかと・・・
「グループ主義」とは「民主(個人)主義」と「社会(国家)主義」の中間とでも思ってもらえば良いのですが、ともかく「お家主義」とか「地域主義」とか「会社主義」とか、小集団(家族、血族を含む)からは完全に抜けきるのは難しいのだろうと思うのです。(そのような全てを断ち切りたいという意識はあるでしょうが)
多分、米国ではその辺も含めて、ドライなはずである。元々が母国を捨て先住民族を滅ぼして建国した国で祖先は「狩猟民族」である。土地に愛着を持ち、その土地の恵みによって生活を営み、先祖代々の土地に土着してきた「農耕民族」である日本人には血統的にも「完全な欧米思考」は成し得ず、あるのは「エセ欧米志向(思考ではない)」ではないだろうか?
個人主義の合理的自由主義は「個人の権利」を中心にできあがっている。それは、本来ならば「ワガママと権利の差」も厳密に区別されるべきだと思うけど、日本人には馴染まないので審議する方も誤った判断を下し「不条理なワガママすらまかり通る事態になる」事になる。「行列の出来る法律屋さん」(だっけ?)でも判断は分かれる。要は主観によって声の大きい方か詭弁の巧い者の主張が通りやすいのは「司法」においても同じだと云う事だろう。
日本に馴染まない「個人主義的合理主義」を無理に導入するのが、全ての悪循環の原因なのだろうと思う。
教育はもう少し「自分の生まれた土地を大切にし、自分の仲間を大切にする」教育をするように心がけるべきだろうと思う。このような事を書くと「右翼だ、国家主義者だ!」と言われそうだが、人間一人では生きていけない。国を愛するのはともかくとして自分の仲間は愛する必要があるし、施された愛は返すのが「人の理」だろうと思う。先輩から教えられた事は後輩に教え、親から与えられた愛は子に返すのである。
仁、忠、孝、信、礼、愛・・・廃れた感のある「儒教」の思想ではあるが、日本人には「キリスト教」よりは馴染む気がするし、神道との関係も多少気になる所です。
問題の根元は教育だろうと思う、欧米追従で個人主義的合理主義の教育を想像すると、教育は「個人を高める事」しか教えない、教師はその為の踏み台であり、同級生は全て敵であり、親が子を養うのは「自らの快楽の結果の後始末(自己責任)」であり、法律的な義務とされてしまっても仕方がないかもしれない。そこには何の感謝のカケラもない。
ご飯が食べられるのには八十八(だから米)の人の苦労のたまものなどとは全く考えず、神(キリスト)の思し召しとなりそうである。
多分、宗教的にはキリスト教にも価値はない。多神教の方が日本人には合っている。多神教とは全ての物に感謝しようと云う思想である。宗教は本来は人を良くしようと云う方便なのだろうとKは思っている。
以上「ブログ Kのつぶやき」より転載
http://kdesu.ameblo.jp/