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(回答先: 親愛なるぷち熟女さんへ 投稿者 如往 日時 2004 年 9 月 03 日 03:42:31)
如往さま、
お久しぶりでございます。
『直近のレスから一ヶ月余の時間が経ってしまいましたが、お元気でしょうか。(どこかにスレッドを立てられていて、私が見落としているのかも知れませんね。)』
実際あれから投稿しておりませんでした。
仕事で、あたくし一人で進めなくてはならなく、
しかも開発のスパンが最低1年というプロジェクトが始まりまして、
日々の少しの遅れが積もると期限に影響します。
余暇が以前に比べて随分少なくなってしまいました。
『ぷち熟女さんからの回答がないことよりも、久しき不在に淋しさを覚え、同時に安否が少し心配にもなってきたところですが、杞憂に終わることを切に望んでいます。』
ご心配いただき、申し訳ございません。あたくしは元気です。
お盆の頃にお返事するはずでしたのに遅くなっており、お詫び申し上げます。
『最近、【ぷち熟女のヴィジョンhttp://www.asyura2.com/0401/dispute16/msg/1020.html投稿者 ぷち熟女 日時 2004 年 4 月 10 日 03:15:47】を反復・咀嚼しながらぷち熟女さんの心象風景の原点はアンリ・コルピ『かくも長き不在』(1960)のテレーズよりも、やはりロマン・ポランスキー『反撥』のキャロルのそれに近いのかも知れないとの想いを深くしていました。』
確かにテレーズでは全くありませんね。
『もちろん、キャロルが即自的存在であったのにたいし、ぷち熟女さんが対自的存在であることの差異はヴィジョンに表出している事柄からも明らかです。』
(自覚の有無に関わらず)自己完結していたいかのように見える人に限って
何故独りでいられないのだろうか、という疑問を長年持ち続けてきております(笑)。
世間を見ていると、それが実に難しいことのようであるとは見て取れるのですが・・・。
あたくし自身のことを申し上げれば、
自分はパートナーが絶対に必要なタイプの人間だと思っているのですが、
ある時点からは、逆にそういった存在に出逢うまで
簡単ではなかったにしても、独りでいることを選択していたんですけどね。
ひとには、深く交際しなければ見えない部分があるのは当然ですが、
それ以前に、深く交際してみたいという気持ちが生まれることすら阻むような
根源的な抵抗感とでもいったものを
自分の中に生じさせるほどの価値観のズレというものがありますよね。
あたくしにとっては、そういったズレを感じさせないでくれる異性というのが
この世間の中には、とてもとても稀であったのです。
それは如往さまが差し向けて来られたテレーズ的なお話に繋がっています:
生活上や、体裁(など)の便宜をして愛であると偽りながら
自分でそれに気付かない、という危険性は、
女性においてだけでなく男性においても相当高いのだ、という多くの例を
あたくし自身若い頃からずっと見て来ました。
いや、子供の頃からでしたかね、見て来ていたのは。
生まれてみると、自分のものでもないツケがそこにありましたから(笑)。
そういう嘘を見ていたたまれぬ思いをさせられ続け、
自分をも鏡に映しては、内面のそういった濁りを濯ぎ続けるうちに
残酷にもそういった部分の感性だけは、年齢を重ねても
却ってより鋭敏に、純粋に、不器用に、繊細に、なってしまった。
『ところで、我々が生物としての営みを持続していくにあたって、すなわち(虚時間の地平に還るときまでの)実時間の河を渡っていく過程において、自身の本質的な部分を受けとめてくれるような相手にめぐり逢うのは至難の業なのでしょう。』
自分の内面の即物性をかなりきれいにそぎ落とせた、
と感じられる段階になってみても、
偽りの匂いのしない異性など周囲のどこにもずっと見えませんでしたね。
この世の中の愛に偽りの含まれないものなどないのかな、
と長年かなり悩んでいましたが、
あたくしは『毒を喰らわば皿まで』系女でしたので、
もう出逢うまで待つ、と腹をくくっていましたのよね。
出逢うとまたそれはそれで、そうと気付くまでに時間がかかったりしましたけどね。
求めれば、ないわけではない、というのは確かなんです。
あとは運命なんでしょうね。運命との根比べです。
あたくしは運命と根比べして勝ちました(笑)。
自分のパートナーと出逢ってわかったことがあります:
実はあたくしにはずっと昔から、非常に有り難くない特技がございます。
惚れ合っていないカップルは、両方の顔を見比べただけでわかっちゃうようなんです。
意識ではそんなはずはないという先入観がありますから
自分の得たその嫌な予感を打ち消そうと躍起になるのですが、
そういった感じを持たされたカップルは、
必ずその二人のうち、あたくしが違和感を持ったほうが起こした問題で
別れることになってしまいます。
で、自分にパートナーが出来てみてですね、その瞳を見ているうちに
その秘密がわかったみたいなんですよね。
あたくしがほしかったような温かな愛を抱いた人の瞳には
ポッと明かりが灯っているように見える。
それはいのちなんです。
母親に見守られて安心しきった子どもの瞳なんかにもとても似た明かりが灯っている。
生命保存への不安がそこには影すらもない。
違和感を持っていたカップルの片方には
思い返すと瞳に生彩というものがなかったですね。
あたくしは情熱と愛情は別モノということにするんですが、
情熱で燃えた瞳に映るものは、あたくしにはやはり明かりとは呼べないですね。
あれはやはり火に見えると言ったほうがいい。
浮かされたように上の空な瞳には、やはり靄がかかっているように見える。・・・
『そんなことを、ぷち熟女さんのヴィジョン:「その本質を感じようとしてみると、自分が実体としての身体を失い、意識だけになったように感じながら音も時間もないところに漂っており、自身の上下左右と言わず、気の遠くなるような無限大の闇が広がっているような感覚に襲われます。闇は、しかし完全な闇ではなく、それぞれがある色彩の輝きを持った不定形の小片のような浮遊物に満ちているのが見えます。」に感じ、続く「それを見渡したところは、玉虫色の螺鈿が塵芥となって浮かんだ漆黒の闇みたいなんですね。無限に広がる万華鏡の内部のような世界です。それは『宇宙』の一つのヴィジョンに過ぎないようにも思えるし、『無の静寂』のヴィジョンかも知れません。ゼロの概念のような完全な無というより、有機的な無かな。自分はその中に独り、ただ何も解らずに漂っているだけです。」には、無定量な無力感が支配する我々人間の存在様態の原風景を想起せざるを得ませんでした。』
うまくおまとめになりますね。まあそういったようなことなのでしょう。
あたくしにはとてもそういったきれいにまとまった論評はできません。
『そして、「自分の意識は透き通っており、自分の外にあると思っているその塵の浮かんだ闇と実は互いに透過し合っているかのようです。我々のそれぞれは、その闇の中で自分に認知出来るある部分を裡に抱いて生まれるようです。持って生まれた以上のものを取り込もうとすることは出来ます。しかし、一生のうちに自分の中に取り込めない分は、理解出来ないままで終わります。一人一人の抱いたものもまた、異なっています。」には、朧気な済いと受け容れ難い諦念が錯綜する人間界の現実を垣間見たような気がしました。』
そうですね。
あたくしの描いたところのその済いと諦念は、言うまでもなく、
ここではいずれも他者との関係性においてのものです。
『やがては虚時間の地平に取り込まれてしまう宿命にあって、実時間の川面に明滅する死と再生の生命の物語がどんな意味をもつのか不可解です。しかし、たとえ宿命には抗えなくても、渡河半ばの出来事として自身の感性(存在状況)を受けとめてくれる受容体とめぐり逢える可能性、あるいは自身が他者の感性を受けとめられるような受容体であろうとすること、それ等は辛うじて「有り」ではないかと思うのです。』
あたくしが先に書いたことと本質的には同じですね。
あたくしは貪欲ですので、やはり人生を分かち合うひととの間に
互いにそういった受容体となれるレベルのフィーリングを求めました。
以前あたくしの本質は受動性であると申しましたように、
受容体となることをより得意とするのはあたくしの方ですが、
パートナーのほうも善戦しております。
『>よこしまなものも残酷なものも含む一切合財を全て呑み込んだ静寂ですね。雑談板でお話した『大悲のような何か』とも繋がるのかも知れません。音は聴こえませんが、そこにも、ある残響の振動を感じます。
>闇に漂泊し続け、そんなところにそのまま永遠に身を置くのだ、という思いを味わい続けると、やがて激しい孤独と、身体はないんですけど全身の力が抜け切って崩れ去るような感じを持ち、はらはらと涙が止めどなく流れるかという気分になります。
至極残念に思いますが、私には人に語れるような『残響の振動』の記憶がありません。けれども、後段ではおそらく無力感に纏わる寂寥を叙述しようとされているのでしょう。むしろ、こちらの心象風景には共感するものがあります。』
あたくしは、25や6といった年頃からしばらく
孤独というものとは、とことん対峙した経験がありますからね。
それはこころの内面でのメタファーとしてではなく、
例えば『自分に今ここで何かが起こって死んでしまっても
少なくともしばらくは誰も気付かず、
自分を中心とした半径*千キロ内に、自分の死を本気で悲しむ人は誰もいない』
といったことが事実であるというレベルの孤独です。
そういった実経験がある人々なら(もちろんこちらには少なくないでしょう)、
あたくしのヴィジョンの、
この部分で如往さまが引用なさったくだりに共感なさろうがなさるまいが
その『無力感に纏わる寂寥』はリアリティーを持って想起なさるはずです。
このくだりはですね、種明かしをいたしますと、
元はあっしら様の『愛は自己愛である』のセオリーに違和感を感じたことから
それへのレスとして用意したくだんの投稿をタイプする前夜
既に寝息を立てていた愛するひとの傍らに横たわったまま、
人生を共に歩んでいこうといつの間にか互いに固く決意することになったそのひとと
実際に出逢ってその顔を知るまでの何年も何年もの間、
『あなたはいるのですか、一体何処にいるの、
もう私たちは何処かで出逢っているの、それともまだ互いに知らないままなの?
一体何時あなたが誰だかわかるのかしら?
出来るだけ早く私に気がついてね、
残された時間のうちの1分でも1秒でも長くあなたと分かち合いたいから』
と、まるで生まれて来る子どもを待つように語りかけ続けていた、
今もはっきりと記憶しているその気持ちを胸に甦らせながら
いつも異次元の時空からの振動を受信しているみずおちの辺りに
(あたくしは、その辺りに
まるで目に見えない臍帯が付いているような身体的感覚を持っています)
意識を集中させた結果、脳裏で結ばれたと感知できた『映像』を
文章として書き起こしてみたものです。
『>意識の手を伸ばしても何にも触れることが出来ず、足を伸ばしても地面はありません。恐ろしい不安があります。その終りがないかというような孤独を感じながらも、意識の手を出来る限り伸ばして、自分と繋がってくれる存在を求めたくなります。
>やがて、その自分の意識の手をつかまえる他者に出遭いますが、その存在も多分、この闇の、自分が抱いているのとはまた違った部分を抱いて生まれ、取り込み続けてきたのでしょう。・・・
かかる想像し得る限りでの究極的な出遭いが実時間を渡河する間に起り得るものなのでしょうか。けれども、それがとても素晴らしい出来事であることは疑い得ないでしょう。』
いいえ、上に引かれたくだりは、
最初から究極的であると判然としたような出逢いを描写したものではなく、
むしろ平凡な出会いのことを書いたものであると思っています。
究極的な出逢いも、その始まりは
平凡なものであることの方が多いのではないでしょうか。
求め合ったかのように出会ったとは言っても、
共通のベースとなる価値観があるわけでもなく、
互いに違ったものに関心を示し、興味を引かれていた中での出会い、
といったようなものです。
真に互いに向き合った疎通が始まることになるのかかどうかが判る前段階で
文章を切ってしまっています。
『ぷち熟女さんの心的状態が不明にもかかわらず、また今おかれている状況を顧みることなく、過去を遡行してみたり、更なる切り口による会話に及ぶことは躊躇されました。しかし、このスレッドが私の脳裡の一隅を占めていたのは確かでした。そこで、とにかく書き始めてみたものの、ぷち熟女さんの文脈にぶら下がることしかできず、しかも取り留めのないものになってしまって、恥かしいかぎりです。』
時間があり、対話になると思えば、大抵の問いかけにはお答えしたいと思う方です。
残念ながら制約がありますが。
『さて、9月になりましたが、今年の9月がどんなものになるのか分かりません。でも、少なくともぷち熟女さんの登場は私にとって意味があるとの予感はあります。願わくは、ぷち熟女さんにとっても何某かの意味があればよいなと、思っています。
兎にも角にも、引き続きよろしくお願いします。』
恐縮でございます。
引いていただいたあたくしの投稿は、こちらの掲示板群の中では
『ほぼ手放しの共感』と『全くの無関心』に
くっきり分かれた評価を得たらしきものです。
好ましいフィードバックがもたらされることはもちろん喜ばしいことです。
長くなってしまいました。
ではまた、ごきげんよう。