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ぷち熟女さん、こんにちは。
直近のレスから一ヶ月余の時間が経ってしまいましたが、お元気でしょうか。(どこかにスレッドを立てられていて、私が見落としているのかも知れませんね。)
ぷち熟女さんからの回答がないことよりも、久しき不在に淋しさを覚え、同時に安否が少し心配にもなってきたところですが、杞憂に終わることを切に望んでいます。
最近、【ぷち熟女のヴィジョンhttp://www.asyura2.com/0401/dispute16/msg/1020.html投稿者 ぷち熟女 日時 2004 年 4 月 10 日 03:15:47】を反復・咀嚼しながら、ぷち熟女さんの心象風景の原点はアンリ・コルピ『かくも長き不在』(1960)のテレーズよりも、やはりロマン・ポランスキー『反撥』のキャロルのそれに近いのかも知れないとの想いを深くしていました。もちろん、キャロルが即自的存在であったのにたいし、ぷち熟女さんが対自的存在であることの差異はヴィジョンに表出している事柄からも明らかです。
ところで、我々が生物としての営みを持続していくにあたって、すなわち(虚時間の地平に還るときまでの)実時間の河を渡っていく過程において、自身の本質的な部分を受けとめてくれるような相手にめぐり逢うのは至難の業なのでしょう。
そんなことを、ぷち熟女さんのヴィジョン:「その本質を感じようとしてみると、自分が実体としての身体を失い、意識だけになったように感じながら音も時間もないところに漂っており、自身の上下左右と言わず、気の遠くなるような無限大の闇が広がっているような感覚に襲われます。闇は、しかし完全な闇ではなく、それぞれがある色彩の輝きを持った不定形の小片のような浮遊物に満ちているのが見えます。」に感じ、続く「それを見渡したところは、玉虫色の螺鈿が塵芥となって浮かんだ漆黒の闇みたいなんですね。無限に広がる万華鏡の内部のような世界です。それは『宇宙』の一つのヴィジョンに過ぎないようにも思えるし、『無の静寂』のヴィジョンかも知れません。ゼロの概念のような完全な無というより、有機的な無かな。自分はその中に独り、ただ何も解らずに漂っているだけです。」には、無定量な無力感が支配する我々人間の存在様態の原風景を想起せざるを得ませんでした。
そして、「自分の意識は透き通っており、自分の外にあると思っているその塵の浮かんだ闇と実は互いに透過し合っているかのようです。我々のそれぞれは、その闇の中で自分に認知出来るある部分を裡に抱いて生まれるようです。持って生まれた以上のものを取り込もうとすることは出来ます。しかし、一生のうちに自分の中に取り込めない分は、理解出来ないままで終わります。一人一人の抱いたものもまた、異なっています。」には、朧気な済いと受け容れ難い諦念が錯綜する人間界の現実を垣間見たような気がしました。
やがては虚時間の地平に取り込まれてしまう宿命にあって、実時間の川面に明滅する死と再生の生命の物語がどんな意味をもつのか不可解です。しかし、たとえ宿命には抗えなくても、渡河半ばの出来事として自身の感性(存在状況)を受けとめてくれる受容体とめぐり逢える可能性、あるいは自身が他者の感性を受けとめられるような受容体であろうとすること、それ等は辛うじて「有り」ではないかと思うのです。
>よこしまなものも残酷なものも含む一切合財を全て呑み込んだ静寂ですね。雑談板でお話した『大悲のような何か』とも繋がるのかも知れません。音は聴こえませんが、そこにも、ある残響の振動を感じます。
>闇に漂泊し続け、そんなところにそのまま永遠に身を置くのだ、という思いを味わい続けると、やがて激しい孤独と、身体はないんですけど全身の力が抜け切って崩れ去るような感じを持ち、はらはらと涙が止めどなく流れるかという気分になります。
至極残念に思いますが、私には人に語れるような『残響の振動』の記憶がありません。けれども、後段ではおそらく無力感に纏わる寂寥を叙述しようとされているのでしょう。むしろ、こちらの心象風景には共感するものがあります。
起きている間、概ね私は60%以上を生活(日常的)レベルの思考で過ごし、30%ほどを哲学(根源的)レベルの思考をしているような気がします。それでも、残る数%は、時々境界を踏み越えて形而上学(非日常的)レベルに達し、限りなく彼岸に接近してしまうこともあるようです。
>意識の手を伸ばしても何にも触れることが出来ず、足を伸ばしても地面はありません。恐ろしい不安があります。その終りがないかというような孤独を感じながらも、意識の手を出来る限り伸ばして、自分と繋がってくれる存在を求めたくなります。
>やがて、その自分の意識の手をつかまえる他者に出遭いますが、その存在も多分、この闇の、自分が抱いているのとはまた違った部分を抱いて生まれ、取り込み続けてきたのでしょう。・・・
かかる想像し得る限りでの究極的な出遭いが実時間を渡河する間に起り得るものなのでしょうか。けれども、それがとても素晴らしい出来事であることは疑い得ないでしょう。
ぷち熟女さんの心的状態が不明にもかかわらず、また今おかれている状況を顧みることなく、過去を遡行してみたり、更なる切り口による会話に及ぶことは躊躇されました。しかし、このスレッドが私の脳裡の一隅を占めていたのは確かでした。そこで、とにかく書き始めてみたものの、ぷち熟女さんの文脈にぶら下がることしかできず、しかも取り留めのないものになってしまって、恥かしいかぎりです。
さて、9月になりましたが、今年の9月がどんなものになるのか分かりません。でも、少なくともぷち熟女さんの登場は私にとって意味があるとの予感はあります。願わくは、ぷち熟女さんにとっても何某かの意味があればよいなと、思っています。
兎にも角にも、引き続きよろしくお願いします。
また、会いましょう。