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江戸時代の日本人が鉄砲を捨てたというのは事実ではないそうです。
事実は大量の鉄砲があったのだそうです。
『鉄砲と日本人』 鈴木真哉著 筑摩書房
第9章 鉄砲を捨てなかった日本人
P.240
なぜこういう誤解が生じたのかという解明は後まわしにして、事実関係から見てみよう。
結論を先にいえば、武士階級はもちろん、庶民の手にも江戸時代を通じてたくさんの鉄砲があった。
まず武士層についていえば、軍役のなかに鉄砲が組み込まれていたのだから、それも当然だろう。
軍役については改めて注釈を加えるまでもあるまいが、武士が主人に対して提供を義務づけられる
軍事的な負担のことである。与えられている知行に応じて課せられるのが普通で、知行高にしたがって
日数、人数、必要な装備等が定められた。
江戸幕府の例でいうと、幕府成立後何度か改定されたが、慶安二年(1649)に施行されたもので
落ち着き、それが幕末の文久三年(1863)まで適用されている。
それによってみると、大名としては最低の1万石の知行で人数が235人、うち鉄砲が20挺であるから、
比率は8.5パーセントである。これが10万石となると、2155人、350挺で16.2パーセントという数値になる。
各大名家では、当然規定された数の鉄砲を常備しなければならないし、予備の鉄砲も用意しただろうから
これだけでも全国的には大変な数になる。
軍役は幕府の旗本などにも課せられていたから、それらを加えればさらに膨大なものとなる。
P.241
武士がこんな具合だったとすると、民間はどうだったろうか。塚本学氏などがすでに
指摘しているように、江戸幕府が鉄砲に対して厳しい統制を行っていたというのは、必ずしも実証された
史実ではなく、民間にも多数の鉄砲が保有されていたのが事実である。
貞享四年(1687)、将軍綱吉の時代におこなわれた「諸国鉄砲改め」は画期的なもので、これによって
公領、私領を問わず、鳥獣から畑を守るための威し鉄砲や猟師鉄砲などを除いては保有できなくなったと
されているが、このときの状況から見ると、仙台藩領3984挺、尾張藩領3080挺、長州藩領4158挺という
具合で、大変な数の鉄砲が民間にあったことがわかる。紀州藩では元禄六年(1693)に調査を行っているが
さすがかつて鉄砲で鳴らした土地柄だけのことはあって、8013挺と他領にくらべてひときわ大きな数値が
出ている。猟師鉄砲3893挺、威し鉄砲3011挺が主なものだが、密猟が発覚するなどして没収されたものも
856挺に及んでいる。
もともと鉄砲改め令は、すべての鉄砲の没収を目的としたわけではないし、それ自体が綱吉が死ぬと
事実上撤回されてしまったから、依然として民間には大量の鉄砲が保有され続けた。
宝永八年(1711)一月の対馬藩の調べによると1402挺の鉄砲があり、うち1158挺は民間で調えたもの、
244挺は官から渡したものであり、ほかにすでに破損してしまっているものが96挺あったという。
対馬は野獣の害に悩まれされていたところだから多かったのだろうが、それにしても村の20歳から
60歳までの壮丁3900人に対して、これほどの鉄砲があったのだから驚異とすべきだろう。
これら表面に現れたもの以外に、ひそかに保有されているものがきわめて多かった。
将軍家のお膝元である関東地方では、幕末までずっと鉄砲改めは行われていたが、届け出られたものより、
もぐりで保有されているもののほうがずっと多かった。そのことは幕府代官手代で八州廻代官の下で
働いたこともある人が維新後にはっきり証言している。
江戸時代の日本人は鉄砲を捨てたなどという見方がいかに皮相で事実から遠いものであるからは
明らかであろう。