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(回答先: 鉄砲組 投稿者 ponpon 日時 2004 年 7 月 31 日 09:39:02)
ponponさん レスありがとうございます。
私はブツ(実証的知識)なしでコンセプト(思いつきとも言う)だけで勝負しているので(苦笑)
こういうレスを戴くのは望外の幸せです。
【ponponさん】
イノシシを撃ち損じて「手負い」になると人間を襲うクセがついて人的被害が出るため、ちょっとイノシシにはかわいそうなのですが、確実に倒すように集団で攻撃すると言うわけです。考えてみれば火縄銃とは銃弾の装填が面倒で一発撃つのに手間がかかる単発銃ですからね。連続射撃するには集団でないと無理ですからね。こういう猛獣の山狩りを行う猟師の集団を鉄砲組と言ったそうです。
村田銃になっても基本的には変わっていはいないようです。
【ponponさん】
でも鉄砲組は考えてみれば武装集団になるわけですし、狩猟に名を借りた自警団でもあったとも感じます。例えば東京の新宿百人町にも鉄砲組があったそうで、(記憶は定かではないですが100人編成の鉄砲組だったので百人町と名づけられたと思いましたが)江戸近郊の民兵組織の側面もあったそうです。確か毎年鉄砲を撃つお祭りがありましたね。
百人町は小泉八雲終焉の地なんで覚えていたのですが、長野善光寺にも百人町があり同じように
鉄砲組があったようです。名古屋をはじめ全国の百人町も同じかもしれませんね。
http://www.koueisha.co.jp/hyakunin/MAP17.HTM
http://www.hazama.co.jp/aoyama/history/03/03.htm
しかし、こちらは与力、同心で構成される「官製」の武装勢力の様です。
【ponponさん】
大筒ですが、結構豪農のような農家では一揆や打ちこわし対策に大筒を持っていたのかも知れません。というのも今から30年ほど前の小学生の頃に(年齢がバレる!?)読んだ子供の科学と言う本に、関東のどこか忘れたけれども農家の倉から木製の大砲と石で作った砲弾が出てきた、という記事とイラストがありました。
木製の大砲というのは今で言う使い捨てのロケットランチャーみたいなものでしょう。
一発打ったら使い物にならなくなる。むしろ打ち上げ花火や狼煙に使った可能性もありますね。
抱え大筒については
http://homepage2.nifty.com/akizuki-kyoudo/pic25.html
【ponponさん】
私の実家がある中国山地は山が多くて田んぼの面積が少ない。ですから豪農といってもたかが知れています。けれども関東は平地が多いので関東の普通の自作農が中国山地の豪農くらいの規模ではないかと思います。だから関東の豪農というのであればとんでもなく豊かでしょうね。そうなれば一揆や打ちこわし対策のために武装もするであろうし、体制側も非常時には反乱鎮圧に利用できるように火器武装もさせたと想像します。
話がずれてしまいますが、これは非常に重要なご指摘でponponさんの別投稿
【ponponさん】
こうした背景で事業家が出てきて、江戸時代も元禄の頃には、米本位制の封建主義が表の体制であるのにたいして、実質の経済が現金で流通する資本主義になっていたのでしょうね。世界で最初の商品相場市場は大阪堂島の米市場ですからね。
と関わる話だと思います。昨年、中上健次への思い入れもあって南紀、熊野を旅行したのです
が、どこか関東地方と違う、違和感があるわけです。よく考えたら「田んぼ」が全くといって
良いほどないのです。でもponponさんのご実家もそうでしょうが「決して貧しいわけではない」
と思います。(コウゾ、ミツマタとか和紙の生産、炭焼きとか盛んだったのではありませんか?)
ponponさんは「資本主義」とおっしゃっていますが、商品経済(商人資本)じゃないかと思うのです。
網野善彦氏の本はみな驚かされますが、『歴史を考えるヒント』には驚嘆します。
江戸時代は建前は米の物納、現物支給ですよね。加賀百万石とか○人扶持とか。でも書かれておられる
ように大名といえど堂島の札差で米を現金化しなければ何も買えなかったわけです。
江戸時代の人別だと非農耕民(鉱山開発の山師をはじめ製鉄に携わる山人系の鍛冶技術集団、漁労民
、木地師)などは全部「水呑」にされたわけですね。網野氏の挙げている北陸の時国家なんかも
身分から言ったら水呑なんですが、百人近い使用人を抱え、回船を持ち交易を本業としても田んぼは
僅かしか持っていない。
江戸時代に天明、天保の飢饉とかあったわけですが、一揆、強訴も自然災害、過酷な年貢とかでは
説明がつかない。米=貨幣だったわけで大名は新田開発を奨励した。しかし商品作物の単一大規模
栽培というのは非常に危ないわけです。原種が亜熱帯モンスーン地域の稲を北限ぎりぎりまで栽培
する、土地が狭いから深耕、密植すれば自然災害や病虫害に弱いのは当たり前です。アジア(タイなど)
の米作はもっと粗放的ですね。自然の湿地や三角州などを利用するし。
江戸時代でも金肥、魚肥を使って単位面積当たりの収穫量を上げようとした。つまり農民が借金をした
わけですね。ですから堂島の相場が暴落すると死活問題になった。じゃないと打毀しなんてただの
「八つ当たり」にしかならない。
「百姓=農耕民」という錯視は明治政府にも引き継がれたわけです。
-----------------------------------------引用はじめ
網野善彦『歴史を考えるヒント』
愛媛県松山市の近くに、二神島という瀬戸内海に浮かぶ小さな島があります。この島には
江戸時代の終わり頃に亘二士戸ほどの家があり、江戸中期の人口は四百五十人程度でした。
典型的な海村で、浜辺に家が密集しており、田畠はほとんどないと言ってもいいくらいわず
かな面積しかありませんでした。そのごくわずかな田畠を亘二十戸の人たちが少しずつ分け
て耕作していたのですから、実際の生活が海や山での生業の産物とその売買、船による交易、
商業などによって成り立っていたことは問違いありません、、
私は近年、かつてこの島に城館を持つ「海の領主」だった二神家の文書を調査する機会に
恵まれたのですが、最近になって同じ島の魚商売を手広く営んでいた村上宗一郎家から壬申
戸籍の草稿本が見つかりました。清書して県に提出する前の下書きですが、それを見たとこ
ろ、驚いたことに、商業を営んでいたこの村上家をはじめ、島の亘二十戸の家のほぼすべて
(一軒は寺院、一軒は恐らく書き落とし)に、「農」という注記が付されていました。つまり、
この島の人々は百バーセント「農民」ということになっているのです。
これが県庁、政府に提出されたのですが、この戸籍からは二神島の人々の生活を支えた最
も主要な生業である、漁業・舟運や商業、山での生業などは全部、切り捨てられていること
になります。私も仮に研究室でこの草稿本を見たとしたら、二神島は農業が盛んな島だった
と思い込んでしまったに相違ありません。しかし、私は実際には田畠がごくわずかしかない
ことを現地で見て知っていましたから、それが実態を大きく歪曲していることに直ちに気が
つくことができたのです。
これは、明治政府が壬申戸籍をつくるときに、職業は基本的に「農工商」とし、「百娃」
「水呑」はすべて「農」として公的な帳簿に記載させたからにほかなりません。そして、こ
れは全国各地で行われました
------------------------------------------引用終わり
ちょっと言いすぎの気もしますが、「米は日本の文化」青々とした水田をみると「日本人の
心のふるさ」と詠嘆する日本人の感性(心性)自体が大嘘、創作されたものではないかと
疑っているわけです。
【ponponさん】
さて火縄銃の弾丸と火薬について。弾丸はいろりの火であぶって鉛を溶かして型に入れて弾を作るのをテレビ等で見たことないですか?火薬は主成分が木炭の粉末、硝石の粉末だったと思いました。木炭はどこの家にもあります。硝石は肥溜めの近くの土をなんとかして加工するというのを読んだことが有る。ですから結構自家製造が可能であったと思うのです。
うーんこれは気が付きませんでした。硝石=アンモニアですね。チリ=硝石=海鳥の糞の堆積
と小学校で習ったような気がします。
【ponponさん】
江戸幕府は鉄砲の規制を行ってはいたのでしょうが、鉄砲製造技術を維持するために国友村(今はどこの県でしょうか?)に職人を集めて鉄砲を製造していた。けれども器用な日本人にしては不思議なくらい火縄銃が発展していませんね。これは思うに鉄砲本体よりも弾丸を薬莢式にすることが出来なかったからですかね。
これはれれれさんへのレスで書きましたが「作れるのに、わざと作らなかった」と思っています。
鉄砲主体の軍事技術に以降すれば武士は要らなくなる。自己否定になりますから。鉄砲に限らず
社会−生産関係を揺るがすようなテクノロジを抑圧したから300年持った、鎖国もそうですし
「米本位制」の建前を崩さず本音が商品経済であることを隠そうとしたわけですし。
【ponponさん】
けれども江戸時代には結構定住していたようにも聞いています。というのも体制側も鉄=武器という意識があるから、鉄の製造は結構管理されていたように見受けられる。何故それがわかるかというと、中国山地でもタタラが多い地域は江戸幕府の「天領」になっているところが多いのです。ぽつんと集落ひとつが飛び地みたいに天領なんです。
大元さえ押さえておけば良いということですね。
【ponponさん】
もっとも、天領と言うのはコロコロと変わっていたようでもありますが。天領になった場合、年貢が安くなるので(普通の藩の半分以下)その分農民が蓄財できる。それで機織や染物を行って事業家となって結構お金持ちが生まれたみたいですね。天領の年貢が安いのは、徳川幕府そのものが700万石くらいの最大の「藩」というのも同然でしたから、年貢を高くしなくても御家人達(このばあいは徳川家ですから旗本ですね)を養えたからです。
幕府自体が自分の墓を掘っていたわけですね。商品経済の浸透で幕末期には幕府をはじめ諸藩
の財政は火の車。おっしゃる様な篤農家がいなければ「秩父困民党」や藤村の『夜明け前』は
ありえなかったわけですし。
非常に参考になりました。あらためて感謝いたします。