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(回答先: 日本の取るべき戦略 その3 投稿者 岩住達郎 日時 2004 年 7 月 07 日 04:29:02)
岩住達郎さん、どうもです。
興味深い論考を拝読しました。
レスのかたちで書かれている内容のなかには大いに賛同できるものがありますが、今回は、それらの前提とも言える冒頭部分に限定してレスをさせていただきます。
「価値判断」に囚われずに論理として政治を考えようという趣旨で書かれたものだと受け止めています。
ですから、書かれた内容は、できるだけ論理として読み取ろうし、務めて価値判断は含まれていないものとして読んだ上でのレスだとご理解ください。
「人間の価値観を基礎としない政治思想」として書かれている内容のなかに、どうしても価値判断(価値観)が拠っているとしか判断できないものがあります。
まず、
>摂理1:いかなる生物も、生きる欲望を持つ限り、生存競争を免れる事は出来ない。
>又、相応の代価を払わずに競争を低減させることは出来ない。
リバイアサン的“自然社会”や一大食糧危機など“カタストロフィー的世界”を想定すれば論理とも言えますが、現実の政治に関する摂理であれば、価値観を排除した認識とは言えません。
(“自然社会”や“カタストロフィー的世界”は、政治という行為が無効になる状況ですから、政治論の対象にするのはふさわしくありません)
生物種間の“生存競争”は論理として受け容れられるとしても、「社会によって不変の物と可変の物とを明らかにする」を前提に書かれたものですから、人という生物種内の“生存競争”と理解すれば、論理としても価値観としても受け容れられません。
私は、「いかなる生物も、生きる欲望を持つ限り、生存競争を免れる事は出来ない」という表現よりも、「いかなる生物も、生きる欲望を持つ限り、“生存努力”を免れる事は出来ない」という表現を採ります。
そして、生物は、とりわけ人間は、他者関係的活動を通じて“生存努力”の効果や効率を高めてきたと理解しています。
人間が歴史的に“生存競争”を営んできたと見えるのなら、それは、“生存努力”が不合理に行われてきた証だと思っています。
(その要因の一つは、類性が家族・部族・国家の枠内にとどまり、それらを超えた他者は“異生物”であったことだと考えています)
個人ではなく類(共同体や国家)として考えるのなら、競争ではなく協働のほうが“生存努力”の効果や効率を高めることは確実だからです。
(個人として考えるのなら、ひとの“生存努力”の成果を掠め取ったり吸い上げたほうがより効果的で効率的な“生存努力”と言うことができます)
このようなことから、「人間は、人間内の生存競争を免れる事が出来るし、免れるシステムをつくることでより心地よく効率もいい“生存努力”になる。今を生きている人々は、そのようなシステムをどうやってつくるかを考え、それを政治的に実現しなければならない」と逆提示させていただきます。
>摂理2:完全に平等な競争環境は存在しない。競争参加者には先天的な固有の競争能
>力に優劣が存在し、且つ後天的な運の善し悪しが存在する。
“生存努力”能力に優劣が存在することや個々人が運により左右することを認めます。
>摂理3:いかなる物事にも完璧は存在しない。
「完璧」かどうかは人の価値判断によりますから、微妙な摂理ですが、ひとは全知全能ではなく、思い通りに物事を達成できないということとして同意します。
>摂理4:いかなる成長も無限に拡大する事はあり得ない。
無限であるかどうかは、有限である生物(人)には検証できないことです。
たぶんですが、人は存続する限りに“無限”に成長するだろうなと思っています。
(成長は、“生存努力”の能力についてです)
>摂理5:寿命の無い生物は存在しない。
そうであった、今後もそうであるだろうという理解において同意します。
(それは人知を超えた判断だと思っています)
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>系1−1:生きる欲望は全ての生物の遺伝子に組み込まれている。生きる欲望が絶え
>る時がその生物の寿命と定義される。生きる欲望が発展して所有欲に展開するのは価
>値観を持つ生物に限られる。
そうかも知れないとは言えても、そんなことは人知で判断できないと思っています。
(動物のみならず植物も、巣やテリトリーを確保したり、根を広げるなど“所有欲”があるように思えます)
>系1−2:価値観を持つ生物の中で富の概念を発見したのは人間のみである。
そうかも知れないとは言えても、そんなことは人知で判断できないと思っています。
>系2ー1:権力とは政治的生存競争の勝者に与えられる力と定義され、摂理2により
>完全に平等な競争環境は存在しない事から、不平等を権力者にとって有利に使おうと
>する動機が必ず発生する。しかるに、不平等の乱用は国民にとって腐敗と解釈される
>のが社会通念である。故に、長期間腐敗しない権力は存在しない。ここで長期間とは
>人間の一世代以上の期間を意味する。腐敗を悪と判断するのは人間の価値観に依る。
大枠の批判は、上述の摂理1に関するもので代えさせていただきます。
「長期間腐敗しない権力は存在しない」は、腐敗とは何かという定義問題も関わりますが、傾向としては言えても、存在しないとは判断できないと考えています。
>系2−2:腐敗による権力者の生存競争回避が起こるとその代価は国民が払う事にな
>る。故に、政治権力は特定家族又は組織に一世代以上存続させてはならない。
やはり、傾向としては言えても、そうは言い切れないと思います。
存続させるかさせないかは、国民が判断すればいいことです。
>系2−3:先天的及び後天的な競争能力の差を補填させるには必ず相応の代価を必要
>とするが、その代価は補填の方法により異なる。即ち、補填の効率には最良から最悪
>まで各種存在し、かつ与えられた条件によって最良の方法が変わる。此処で補填の効
>率とは、同じ競争能力の差を補填する諸種の方法に要する各々の代価の比較を指す。
「先天的及び後天的な競争能力の差を補填させるには必ず相応の代価を必要とするが」、その対価を超えるメリット(報償)を得られることもあるという視点が欠落しています。
「近代」における政治手法としては、受け容れられるし必要でもある考えだと思っています。
>系3:完璧を定義するには何らかの評価指標が必要であり、指標は人間の価値観を反
>映して作られるから無限に多数存在する。
無限に多数存在する以前に、摂理3に照らせば、評価指標を完璧につくることができないのではないですか?
>系4:成長の有限性は人間の価値観と無関係である。即ち、有限成長の世界でも人間
>の価値観を最大化できる可能性は存在する。
「人間の価値観を最大化できる」というのが、どのようなものか読み取れません。
>系5.:永久に生きる為に払う代価は全て無駄である。
同意します。
>これらの摂理は如何なる生物にも強制される法則であるから、宇宙のどの文明にも通
>用する。
上述の通り、そんなことはないと思っています。
政治(統治行為)は、自然である人の関係性や関係的活動をできるだけうまく統合することが目的ですから、論理としての人の自然的存在性を大前提としながらも、“かくあるべき”という価値観から自由になることはできません。
国家や共同体の構成者である個々人が、抽象レベルは異なるとはいえ、“こうしたい”・“かくあるべき”・“こうであって欲しい”と価値判断しながら生きて(活動して)いるからです。