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(回答先: 文科系論理体系と理科系論理体系の違い 投稿者 岩住達郎 日時 2004 年 7 月 08 日 09:05:30)
岩住達郎さん、どうもです。
疑義を提示した具体的な事柄、とくに、“生存競争”という根源的な問題に触れないままのレスをいただいてたいへん残念に思っています。
>あっしらさんの論法と私の論法の違いは文科系と理科系の教育で使われた論理体系の
>違いから来る物だと思います。理科系の論理体系には論者の主観、即ち「こうあって
>欲しい」という希望的主張を組み込む事は許されません。全てが客観的な議論でなけ
>ればならない
“主観”は、別に「こうあって欲しい」というものだけではありません。
(「こうあって欲しい」は自然科学的認識で通用しないだけではなく、社会科学的認識においても通用しません。文科系認識に「こうあって欲しい」が通用すると考えられているのなら錯誤です。「こうあって欲しい」は、自然科学的認識や社会科学的認識も踏まえた上での人々の活動局面で出てくるものです。政治もそのような活動の一つです)
理科系であろうが文科系であろうが、人の認識活動の在り様(過程性)はイコールです。
“主観”なくして自然事象を認識することはできず、自然の空間的範囲さえ知らないひとは、“主観”で自然をある部分として切り取ったり、自然をある枠組(パラダイム)として想定しなければ、自然科学的考察さえできません。(仮説(“主観”)なくして、科学的認識はできないのです)
科学的検証にしても、“客観”的なものではなく、ひとの“主観”的営為です。
科学的認識は、人の営為で人にとってのみ意味があるのですから、多数の人がその“主観”的営為として追認できれば、それをもって実証されたと判断してもいいだろうと言うものです。
人は有限の存在性ですから、物理法則とされているものが普遍的な法則であるかどうかも実証できません。
自然科学者は、自分たちの行っているのは自然事象を対象とした“主観”的営為であると理解することが求められているのです。
(量子力学や相対性理論といった観測論的自然認識体系は、それを科学理論として迫っているものです)
★ 参照投稿
「認識における「主―客二元論」の超克:「純粋主観」・「純粋客観」そして「純粋感覚」の不在」( http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/228.html )