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(回答先: えずら爺様に会うてきたとこじゃが 投稿者 きゃべ爺 日時 2003 年 11 月 15 日 10:57:57)
きゃべ爺さま、面白い手掛かりを下すってかたじけないことですじゃ。
しかしまぁ、諸方の方々への答えの宿題もたっぷり蓄えこんじまっておって、そこにえずら爺さまの事、A+B=海老?たらいう定理
の事まで抱え込んで…ワシの寿命までに答えられそうもない。なんまいだぶ、なんまいだぶ… ヽ(ー_ー )ノ ←念仏踊り
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>ところで,例のダビンチ研究所のフォーラムだが,動きから察するにどうも既
>にこの「宣伝」の段階に入っているようにも思われる.
やっぱりねぇ(あねさん:ぷち熟女さん風に、キセルを煙草盆のふちにカンと打ちつけて)そういう感じがします。
ベルナルド・リエター氏自身なにか非常に胡散臭いのですよ。ユング心理学をオカルト的に捻じ曲げて騙し(あるいは方便、これこ
そ金融の要?)に使っているようでした。後の方々のことはよく存じませんが。
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>貨幣とは何かと問われれば,ワシはメディアであると答えよう.これを霊体と
>読み直せば,その凝り固まったものが神となるのは必然の理でもあろう.
>つまり,物神である.凝り固まる,ないしお金が際限なく積もるというのは,
>貨幣の持つストックできるという性質(蓄積機能)による.
そのメディアとは何のメディアなのででありましょうか、霊体と読み直しても同じ“それ”は誠に凝り固まるのでありまするか。(ーー;
知的財産権の分野では「化体」という言葉があります。ある権利が物象や事象に内蔵されているとする(強引な)合意のようですが
むしろこっちのいかがわしい論法の方が近いのでは…。
きゃべ爺さまの新時代『化学』を成立させている鍵の定理、あるいは魔法の過程のひとつは、こういう形でも現われるのでは…。
物質や数値情報は、積み重ねも合算もできますが、貨幣がメディアとして働くおおもとの“それ”は積み重ねも合算もできないので
はありますまいか。しかし、“それ”はいったいどこに存在、あるいは現象するのでありましょうか。こちらを問わせて頂きたいです。
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>どうも日本人はあらゆる点において,ストックということに対しあまり熱心で
>はないように思われる.建築などを見ても一目瞭然だが,ストックという概念
>にほとんど無縁であるようだ.西洋的な自然科学が発達しなかった真因もこ
>こにあるのではないか?もちろん,普遍的知識をストックと見る立場で言っ
>ているのだが.いずれにせよ,世界銀行家たちの棲む飽くなき欲界が我々
>の目には果てしなく遠い世界のように感じられてしまうのも無理はない.
ストックという観念自体が、南方系の要素も持つ日本にとってそれほど強烈な価値を持てなかったという事情もありましょうね。
南洋の島では主食のタロイモ等が保存出来ずに腐るものだから主交換対象物の蓄積が効かないようです。その日暮しが基調?
しかし、そもそも貨幣を下支えする“それ”を貨幣に化けさせてしまうことを、禍々しい事として避けるような文化的傾向性が日本にあったという事はないでしょうか(あまり積極的ではなかったという意味です)。
建築に関して言えば、伊勢神宮のように、「神」の依代(結界でもある)を設ける構造物を、最初から取り替えて新しく出来るものに
積極的に創出していますから、そもそも“それ”を化けさせて納得させる装置や機構に対する観念や姿勢が根本的に違うという事を
見るべきではないかと想います。縄文時代の祭祀用土偶(依代)に壊されたものが多いのも同じ姿勢の表現かもしれません。
これは、これからの地球の経営のためにふり返られるべき活きた“遺産”と想います。
『西洋的な自然科学が発達しなかった真因』これについては現在仮説ですが深化して考えています。
過去の別の議論スレッドで考えることを開始しました。
今度は、東洋的な自然科学が発達する時代に転換したと想っていますが、その前提としての西洋的自然科学を受容する土壌が、
日本では江戸時代から醸成されていながら、ついに西洋的自然科学の純粋な形のようなものに至らなかったのはなぜかという事を考えています。この事の根源には、実はこれからの地球の経営の為に積極的に評価されるべき姿勢・思想があると見ています。
西洋的自然科学への道において未熟だったというより、免疫性というべきものが強くてそちらに行けなかったという理解です。
日本で『東洋的な(そして全地球に汎用化可能な)自然科学がこれから発達する根源的理由』がここにあると考えています。
この考え方が、通貨システムによる「世界最終戦争」を戦う根本的な戦略システムを創らせるだろうかと淡い期待もしています。
あっしらさんの「開かれた地域主義」(←開かれた地域共同体)に繋がるかなという淡い予感はします。地域の地域性を護りつつ
相互に開かれた通貨システム(まだまったく具体像が解らないけれど)を支援する思想です。ノーテンキ楽観かもしれません。
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>お金を増やす知恵が学問であるか否かという問いに答えるのはやや難しい.
>ダビンチ研究所の連中なら,これがそれだというのだろうが,ワシもようやく
>それと逆流するもう一つの流れを見つけることができた.おそらくどちらも「科
>学」と呼ぶことはできないだろう.「化学」となら呼びようもあるかもしれんね.
なるほど、やっと了解できたようです。いわゆる錬金術と科学の間に存在する知の次元で、化学をka・gakuと読むよりke・gakuと読んだほうが良いというような学でしょうか。化身や化生のkeから物の怪のkeにも通じますけれど…。
もちろん『共同的資本主義、改め共有的資本主義』に通じるのでしょうね。
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>エズラ・パウンドを読んだことはおありかな?
まだなんですが、ご紹介のサイトに行ってこのサイトは当たりでした。びっくりしたな♪
「内的独白あるいは自伝」http://www1.seaple.icc.ne.jp/nogami/essay8.htm
ここにある事にいちいち共感しています。ただし、書かれている事はこれからもう過去になり行く事象だろうと想います。(パウンド
自身過去の方だから時代が進む限り当然ですが)筆者の方は批評家のスタンスで、自ら創作や創る事、造る事に関わっていない
方のようですが、きっちりと知の彫刻刀で成果を刻んでいらっしゃる印象です。
探検し、読むのに時間が掛かりそうですね。ご紹介を感謝しています。
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宿題:A+B定理について
◆引用はじめ…………
R・F・ハロッドは、『ケインズ伝』の中で、彼が一九二二年頃、オックスフォード大学でケインズとしばらく一緒に滞在していたときに、ケインズと同じように確率論を研究していたオックスフォードの哲学者H・W・B・ジョセフとケインズを朝食の席で引き合わせた時のことを書いている。その時に、会話はダグラスの社会信用論に向かい、ジョセフが入念に、それを論駁した。ケインズは黙って聞き、最後に「ダグラス少佐の誤謬を私がこれまで聞いたうちでもっとも明瞭にかつ見事に暴露したもの」(16)であるといった。
しかし、ジョセフが誤謬を正しく論駁できたとは、彼は考えていなかったのだろう。それどころか彼自身も、論駁できないでいたに違いない。彼が、ダグラスの理論を論駁できたのは、その十年以上も後の一九三五年、『雇用・利子および貨幣の一般理論』の出版によってであったといえる。この中でケインズはダグラスについてこう述べている。
歴史の中のエズラ・パウンド 第14回 第9章 社会信用論 http://www1.seaple.icc.ne.jp/nogami/epih14.htm
◆引用終わり…………
なんちゅう酷い人だ(┰_┰)
ケインズもしばらくは(十年!?)解らなかったらしい事を、経済学始めて半年にならない人間に出題するのですか。 。゜(T^T)゜。
頑張ってやってみますが…教授!下の「解」のチェックをお願いいたします。この「理解」は正しいかどうかをご判断頂けませんか。
『この論はあっしら氏のS=D等式理論にも通ずるものである.』と仰る馬場英治教授にお願いいたします。m(_ _)m
*……………
●「私は解ったのだろうか『あっしら経済学』」 その1
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◆【需要=供給】 (すでに近代的経済システムの中にある社会内で《循環的動態》の断面にて成立している基本的な経済論理)
需要… 供給機制即ち「労働:生産力+機構」を通して労働者等に支払われ、被支払者の所有の元にあり、同時にその被支払
者の購買欲求等が裏打ちしている「購買力:貨幣」
供給… 市場に用意された「購買力:貨幣」の保持者の欲求に対応すべく、「労働:生産力」の機制に投入された「購買力:貨幣」
需要と供給、この二つは「購買力:貨幣」の保持者としての労働者等において、マクロレベルでの経済活動「持続」が目的ならば、
時間的断面においてミクロの総計で同一の数量となる。(貨幣の循環からの漏出退蔵は無いものとする)
この「購買力:貨幣」の数量は、保持者としての労働者等を経て市場に投入される前と、投入された後の貨幣量が時間経過の前後の姿で、相対して現われ、等記号=の左右に並んだものに他ならない。
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……………
◆デフレの現況維持の場合の陥穽と、社会破壊的な解法
需要が上記の定義の通りに、供給の機制をへて労働者等に用意されていなければ、次いで新たな供給も十全に機能し得ない。
つまり、無い袖は振れないどころか、袖なしの腕がそもそも血液循環を失って動かなくなってゆく。
しかし、政府貨幣等のように、供給の機制、即ち「労働:生産力」の機制の稼動を経ずに投下された「購買力:貨幣」は、「労働:
生産力」の機制の競争場における新たな価値創造性、生産性の向上に資することが無く、新たなる欲求に裏打ちされた需要を
再創出し難くなる。これは競争の中での健康な社会的新陳代謝と秩序生成的価値観(貨幣流通の効果的なカスケードを創る
価値観)を、さらに崩す結果を招く。
また、このような方法は、貨幣循環上の幾つもの「退蔵への抜け穴」を経由して退蔵化され、貨幣の循環的動態を収縮させやすくなる。この抜け穴自体が、社会の基盤をすでに侵食している旧態化した受注形態等の習慣によって穿たれてしまっているので、(利権等による流出を含む)そのままではさらにこれらの抜け穴からの流出と退蔵が継続し、貧富の差の不健全な拡張と同時に
経済循環のさらなる収縮という結果を招く。つまり、既得権者等による価値非創出的な形でのピンハネの溜め込みを招くのみ。
*
★実はこの経済学を成立させる前提として、あくまで労働を経ることによる価値創出以外の価値が、商品と貨幣の交換に
介在する事はないものとするという哲学が存在する.(現実はそうではないが、量的に無視できるほど小さいという判断)
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きゃべ爺さまからのお返事はまっこと楽しゅうござったじゃ。
なかなか仕事も大変じゃということじゃからの、お返事くりょうならワシがお迎えを頂くまえでええ。無理せんどくれじゃ。
うう、さぶい… お、お、お、 ばふしんっ…! はふはふ・あふあふ
入れ歯飛んだじゃ。「(^^; )
おやすみじゃ。