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(回答先: Re: この一行は迷いぬいて書いたものです. 投稿者 オリハル 日時 2003 年 11 月 20 日 18:55:26)
> ええ、「まい」で結んでいましたから、言葉使いの正確な人なんだな、とフト思っていました。
どこかで,オリハルさんが「私のホームページには一言の虚偽も含まれていない」と宣言
してるのを見た記憶があります.人間はもとより完全なものでは有り得ないものですから,
この宣言自体が虚偽であることを立証するのは難しくないとは思いますが,それよりもむ
しろオリハルさんが,全霊をかけてそのように断言しているところ(姿勢)に共感を感じます.
聖書(テトスへの手紙)にも出てきますが,エピメニデスのパラドックスというのがあります.
例の「クレタ人はいつもうそつき」というやつです.一般化すると「この文は誤りである」とい
う言明になります.もし,この言明が真であるとすると,真である文が誤り(偽)であるという
ことになり,矛盾します.同様に偽であるとしても矛盾が生じます.ホッフスタッターはこの
ような言明を自己言及文と呼びました.ゲーデルの不完全性定理というのも,実は,この
よく知られたパラドックスに厳密な数学的表現を与えたもの以上でも以下でもありません.
> なるほど、1992年頃から戦争が正当化されなくなったという側面がありましたね。そういう人類意識上の変化ですね。
オリハルさんのホームページ(戦争終結への道 http://www.bekkoame.ne.jp/~oriharu/jstopwar.htm)
に以下のような記述を見つけました.
《人が自己の動物性に自覚的=人間的であれば戦争は起きないのです。
人の精神(魂)が(7の区分に於ける)人間段階になれば戦争は起きない社会が実現します。》
人類がある段階に達すれば,戦争は起きない,少なくとも戦争は正当化され得ないという
認識において,完全に一致できると思います.
> 生命の木(中央)の両側には、力の木(善悪を知る)と知恵の木、というのは有り得る解釈だと思います。力の木の実で人は善悪を知り、知恵の木の実で、人は自らの限界がどこまでかを知る、というわけですね。これらについても、今回、新たに気づかされたものでした。「善悪を知る木」と「知恵の木」という二通りの表現をしているところで両者を区別をする発見はこれまたスルドイと思います。
この考え方も,すでに上記ページの中で述べられてますね!
《智恵(質)と力(量)は直交しており、その交点を愛が第3の軸として直交しています。》
> また何かありましたら教えて下さい。
以下の記述にも私の発想・スタイルとの親近性を感じました.
《このような数の展開は、将来的にはカオスとかフラクタルとかの分野で数学的にも証明される日が来るのではないかと思います。》
フラクタル(自己相似性)という数学的構造は万象にあまねく出現することが認められますが,
王仁三郎の雛形経綸というのはまさにこれですね.王仁三郎はそれを聖書の深読み(預言者
の起居・振る舞いについての記述)から習得したものと思われます.オリハルさんは,
《これら(シュタイナーの直感的認識)は何も、そうしなければ理解できないものではないのです。
宇宙はフラクタルになっているので、どのような次元でも理解できる幅の広いものです。》
と書かれてますが,その通りだと思います.
(私はシュタイナーは一行も読んでおりませんので,あしからず.<(_ _)>)
グルジェフの伝えた7の法則(オクターヴの法則)というものがどんなものかよく分りませんが,
音階もある種のパラドックスを含んでいます.バッハは平均率という特殊な音階を使って作曲
しています.この音階はピアノの調音に使われるもので,チューニングせずにさまざまな諧調
の曲を演奏できるという利点を持っていますが,厳密にはオクターブ離れた音が倍音の関係
にならないという奇妙な音階です.バッハは平均率を普遍的音階と考えたのだと思いますが
(つまり,彼は普遍的な音楽を作ろうとしていた),実際には,<存在の限界>を越えることは
できなかった...多分バッハはそのことを自覚していたでしょうが.