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(回答先: 雅楽というものもございます 投稿者 ぷち熟女 日時 2003 年 11 月 24 日 19:16:45)
あねさん、今晩は。(うーん、こっちの呼称の方がいいですか)
きゃべ爺さん、あっしらさんに頂いた経済学関係のモチーフが面白いにもかかわらず、彼らの理論的枠組みでは自分の疑問を体系
的に説明してくれそうも無い予感がしてちょっと四苦八苦しています。それで、息抜きに上の流れも拝見しています。耳ダンボ!
〉「私は本気で、現代作曲家たる心得としての戒律と、宗教者として守るべき戒律とが、
〉同義であり同作用を持つことを疑わないのである。」
〉と書いています.つまり,現代作曲家は自由を得たが規範を失った.しかし,その規範を
〉自分の自由意志によって選び直すことはできるだろう,というのが彼の立場です.この人
〉の音楽を聴いていないので,中身については論評できませんが,言いたいことは分ります.
〉たとえば...小学生でも音階に長調と単調の別があるくらいは知っていると思いますが,
〉それでは,「なぜ短音階はさみしく聞こえるのか?」という問に即答できますか?もちろん,
〉バッハはその位のことは知ってます.現代音楽家はどうなんでしょうか?もし,彼らがこん
〉なことも知らずに音をもてあそんでいるのだとしたら,まことに空しいという感じがします...
宗教家の戒律は、その宗教の目指す至高へ至るための最も親切な知恵のグラフを、心と身のうちにかたどってくれる働きかけ
であり、人間の肉体や脳の基本的な働きの階梯性、秩序性を踏まえたものを示すのだろうと想っております。
こういう立体的かつ階梯的な性格を備えているからこそきゃべ爺さんは規範と表現されたように想います。
この規範とは人間の肉体や脳の基本的な働きの組成を理解したところから生まれる事でしょう。
現代音楽家は、こういう次元を理解した上で音楽を作っているのだろうかという問いかけをきゃべ爺さんの言葉から感じたのです
が正しいかしら。
私が凄く気にしている次元でもあり、本当に静かに深く耳ダンボです。
この理解が正しければ、神秘と脳の生理・物理の界面の話で、絶対に聞き逃せないお話ですね。
ここが照明されると、芸術における東洋的アプローチと西洋的アプローチの違いも説明しやすくなるのかもしれません。
ピタゴラスからの形而上学的知識による西洋的アプローチが無いのが東洋なのではなく、それとは異なるアプローチが東洋に
あり、芸術の純粋な経験の現場では西洋的方法が存在しないからと言って西洋コンプレックスを持つ必要は無いし、観念的に
意識した方法論が東洋に存在しなくても、結果的には同様な作品構造が出来る根拠も説明できるのかもしれません。