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例えば「労働価値」という言葉をこのところの書き込みで頻繁に使ってきたが、現代の経済学やメディアではあまり使われていないし、古典派ないしマルクス主義の概念とも微妙に違うので、違和感を感じている方もおられると思う。
また、我流であったり、厳密さに欠ける使い方もしていると思っている。
(経済学を学んでいる人であればあるほど、違和感を持たれたり、おや?と感じられていると思っています。経済学は専攻でなかったので、我流で学んだ程度です)
そのような意味と自分自身が思考を整理する意味で、違和感を感じるかなというものを中心に書き込みで使っている言葉を簡単に説明する。
誤っている部分やわかりにくいところ、さらには、こういう言葉にしたほうがなじみやすいのではと言った指摘や助言をいただければ幸いである。
(別に学問体系ではないので、好きにいじってもらえばと思っています)
また、これまでの書き込みを読まれて、ある言葉や論理の意味が不分明というものがあれば、ここでレスをいただきたい。できるだけ、説明を加えるつもりです。
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■ 「近代経済システム」
資本主義経済とほぼ同じ概念と考えてもらっていいのだが、資本主義経済という言葉はあまりにも理念的なニュアンスが強く、旧ソ連や共産主義中国が掲げている理念とは異なり実は「資本制経済」であることが見えにくくなるということもあるので、“資本の増殖活動”を通じて人々が生存を維持している経済社会を「近代経済システム」と呼ぶ。
「資本制経済」と「近代経済システム」は同義である。
資本が私的所有か公的所有かという所有形態や、市場経済(自由主義)か計画経済かという政府の経済活動への介入度の違いは無関係の概念である。また、民主政体か独裁政体かなどの統治形態の違いも無関係の概念である。
事象的には、多くの人々が通貨の獲得を目指して経済活動を行い、獲得した通貨で生活に必要な物を手に入れるという経済社会である。
その前提として、自己の生存を支える基本的な生産手段を保有していないために、自己の活動力(労働力)を財として通貨と交換しなければならない人が多く存在している社会である。
「近代経済システム」の発展は、通貨の役割を強めるとともに、自己の活動力を他者に販売しなければ生存できない人をより多く生み出していく。
すべての企業が国有であっても、個々の企業が通貨を媒介とした取引を通じて経済活動を行っているのであれば「資本制経済」である。
■ 経済主体
経済主体は、経済論理的には、企業のような自立完結的に経済活動を営む存在である。
自己の活動力を販売することを通じて経済活動に組み込まれる主体(個人)や税収を基礎として経済取引を行う政府(地方政府を含む)は“擬制経済主体”だと考えているが、両者を明確に分けずに経済主体と表現することも多い。
自立した真の経済主体は、おおまかに、食糧生産経済主体・産業経済主体・商業経済主体・サービス経済主体・金融経済主体に分類することができる。
政府など公的機関は擬制経済主体だが、郵便事業や保険事業を行っている組織体は真の経済主体として区分される。
雇用されて働くことで給与を得る勤労者は、擬制経済主体である。
■ 労働成果財と非労働成果財
財とサービスや実物財や金融財といった分け方が一般的にはなされているが、経済取引の対象となる財を、労働成果財と非労働成果財に区分する。
労働成果財は、食糧から建造物・航空機そして金といったいわゆる実物財と物の提供ではないサービスを含むものである。人の活動を伴うもので、通貨を媒介とした経済取引の対象となるものはすべて労働成果財である。
(外食産業は、実物財とサービスが混合した労働成果財供給経済主体である。運送業は、実物財は必要なところに運ばれなければ用をなさないので実物財供給経済主体でもあるし、信書や金融商品などの移動を担うことではサービス供給経済主体でもある。また、商業は、労働成果財の販売(供給)代理機能であり、ここで言うサービスには含まれない)
非労働成果財は、土地(土地の所有権)・株券(企業の部分所有権)・債券(債権証書)・営業権などである。非労働成果財の取引代理をしているのが、証券会社や不動産会社といった経済主体である。
労働成果財でも非労働成果財でもない通貨そのものを取り引きしているのが銀行や保険会社である。(主要な機能のみを取り上げているので誤解なきよう)
信託銀行や最近の制限緩和による非労働成果財の取り扱いは別として、「貸し出し」という経済取引で得られる対価は、「通貨の移転」行為に対する報酬である。
これは、銀行に限らず、クレジットカード会社や消費者金融・商工金融会社にも適用される。
保険会社も、名目は異なるが、「通貨の移転」行為で対価を得ている。
「銀行は余剰資金の最適配分という財を提供している」とか、「銀行はお金が欲しいという人の欲求を満足させる労働をしている」とか、「保険会社は人に安心を与える労働をしている」といった文学的な表現はできるが...。
このような区分を行うのは、資本制経済の発展により、「先進諸国」では自己の活動力を販売しなければ生存できない人が圧倒的多数を占めるようになったからである。
非労働成果財の取引にも人が介在するが、“IT革命”の成果が金融業界で顕著に現れているように、権利所有権者と通貨保有者が結びつけばいいものであり、10万円でも1000億円でも、取引に要する介在人数は論理的には同じで済む。
労働成果財取引の減少は、非労働成果財取引の減少以上に、失業者を増加させる。
それは、非労働成果財の取引が労働成果財の取引から生じる余剰を基礎にしており、労働成果財の取引減少は、非労働成果財の取引減少をもたらすからである。
また、非労働成果財の取引が主として通貨の増加を目的として行われており、守銭奴でもない限り、通貨を増加させる目的は、労働成果財をより多く手に入れることである。
究極的には、労働成果財なくして、人々は生存を維持することすらできない。
このようなことから、財を労働成果財と非労働成果財に区分する視点は重要だと考えている。
■ 財の使用価値的区分
財については、労働成果財と非労働成果財という区分の他に使用価値的な側面から、「必需財」・「利便財」・「奢侈財」・「快楽享受財」・「金融財」という区分を意識している。
「必需財」・「利便財」・「奢侈財」の区別は、歴史的地理的国民経済の違いによって境界線が変動するが、「必需財」は生存及び生活を維持するために不可欠のもので、「利便財」は生活をより効率化したりより快適なものにするもので、「奢侈財」は美意識など精神的価値を充足させるものである。
「快楽享受財」は、書籍・講演・映画鑑賞・スポーツ観戦・観光旅行・風俗など物ではないかたちで精神的価値を充足させるものである。(民間TV局の視聴は無料だが、広告宣伝費を支払う企業が供給する財を購入することで間接的に支払っている。快楽享受というより、精神的満足といったほうがいいのかもしれない)
「金融財」は、通貨そのものもそうだと言えなくもないが、通貨は別として、株式や債券などの金融商品である。
「近代経済システム」的発展を遂げた「先進国」の特徴は、経済的価値の対象が通貨に収斂し、「必需財」・「利便財」・「奢侈財」の境目も曖昧になり財の使用価値的差異性が薄らいでいることである。
■ 資本
経済主体が保有している生産手段総体の現在価値で、通貨額で表現される。
土地や建物を含む生産設備・雇用労働力・投入原材料などの通貨で評価した総和にそれらを購入するために用意されている現預金を加えたものである。
資本は、土地+労働成果財+労働力+活動継続準備通貨という括りでまとめることができる。
労働成果財には、建物・機械設備・原材料などが含まれる。
発行済み株式の総額や利益の内部留保総額とは無関係の概念で、事業目的で活動するために投入されたものを通貨で評価した現在価値の総和である。
投資に向けられているいわゆる余剰資金は含まれない。余剰資金は、追加の土地・労働成果財・労働力に支出したときに資本となる。
また、生産設備の購入などを借り入れに依拠しているかどうかも資本概念とは無関係である。
■ 「労働価値」と財の価格
● 「労働価値」
「労働価値」は、資本が単位労働(労働力+時間)で財を生産する際に不可分のかたちで生み出す価値であり、その量は、それが転化したものである財の販売を通じて知ることができる。
「労働価値」の上昇とは、同一の財を生産する別の経済主体(国民経済)と比較して、特定の財が、同一価額の労働力量と同一労働時間でより多く生産されるようになったことの経済論理的な表現である。
「労働価値」の上昇は、技術革新や生産過程での創意工夫で達成されるものであり、閉鎖的な国民経済であれば、対象財の価格が低下する可能性をもたらす。
「労働価値」は、生産性や付加価値と似た概念だが、より抽象的な概念と考えていただきたい。
生産性や付加価値は、同じ生産システムのままでも賃金を下げることで上昇させることができるが、「労働価値」は賃金の変動で影響を受けないものである。“労働強化”で生産性を上げることはできるが、「労働価値」は“労働強化”に影響されないものである。
また、非労働成果財の取引で生じる付加価値とはまったく別のものである。
「労働価値」は、労働手段(生産設備)と労働力が結合して対象(原材料)に働きかける生産(労働)過程で新たに生み出されるものである。
「労働価値」は、生産された財に含まれる「労働価値」そのものや生産された財の価格そのものではない。
生産された財1単位には機械設備の磨耗分「労働価値」や使われた原材料の「労働価値」が含まれている。また、財の価格は、「労働価値」に規定されるものだが、「労働価値」のみに規定されるわけではない。
「労働価値」=生産された財1単位の「労働価値」−生産設備の磨耗分「労働価値」−消費原材料の「労働価値」
(この式でいう財1単位は使用価値を維持した最小基本単位量を指し、磨耗分及び消費原材料も、最小基本単位の財を生産することで生じた量である)
(生産設備の磨耗分「労働価値」+消費原材料の「労働価値」)は、その財が生産されるときに生じた「労働価値」ではなく、過去の「労働価値」である。
「生産された財1単位の労働価値」は、その財1単位が生産されるまでの全過程で転化した「労働価値」の総和であり、「労働価値」は、最終生産過程の労働を通じて新しく生み出された「労働価値」である。
「労働価値」の上昇は、生産された財1単位に転化される「労働価値」の量を少なくするので、財1単位の価格を下げることを可能にする。
(資本の構成要素である土地は、一般的に、労働成果財や労働力のように消費(磨耗)しないので、単位期間の借地代で考えるか、取得後無限に利用できる(減価しない)ことから0と見なすことができる)
工夫やチームワークそして個々の労働者の能力や志気という無償的(非経済的)と見られる要素は、活動成果としての「労働価値」で経済的に評価されることになる。
(生産設備の「磨耗分労働価値」+消費原材料の「労働価値」)が同じでありながら、生産された財1単位の「労働価値」が他より小さいということは、上記の無償的要素が優れていることを意味する。
それが劣っている国民経済(経済主体)は、優れている国民経済(経済主体)が「労働価値」の上昇を財の価格低下というかたちで現したときに、賃金抑制で対抗して価格競争力を維持しなければならなくなる。
「労働価値」の上昇は、賃金の上昇余地と生産物価格の下落余地をもたらす。
競争条件的に生産した財の価格を下落させなくて済む条件であれば、賃金を上昇させることで「労働価値」の上昇が及ぼす財の価格低下影響力を打ち消すことができる。逆にそうしなければ、生産した財の全量を販売することが不可能になることもある。
財の価格を下落させなければ生産した財が販売できないという競争条件であれば、「労働価値」の上昇を活用して財の販売価格を下落させることができる。そうしなければ、生産した財の全量を販売することができなくなることもある。
賃金の上昇と財の価格低下を組み合わせて「労働価値」の上昇に対応することも可能である。
「労働価値」は絶対的という意味で歴史経過的に上昇していくが、より重要なのは、経済主体間とりわけ国民経済間での「労働価値」の相対的な比較での上昇と下降である。
● 財の価格
財1単位の価格は、財1単位に転化した「労働価値」(労働力価額の量)で論理的には決まる。
財1単位に転化される「労働価値」を減少させるのが、「労働価値」の上昇である。
現実の財価格は、需給バランスやブランド力などに影響されるが、モデル化された経済社会の論理的な財の価格は、財に転化された「労働価値」で規定される。
1単位の「労働価値」が10個の財に転化するか15個の財に転化するかの違いで、財の価格が変動する。論理的には、15個になれば、10個の時より価格が50%下落する。
このような財の価格低下を防ぐ方法は、増加した5個を外部の国民経済に販売(輸出)するか、労働力価額を50%増加させるかである。
「労働価値」の上昇すなわち財価格の下落余地は、資本構成のうち過去の労働成果財である生産設備の比率が高くなればなるほど進むことになる。
労働力の質が同じであれば、生産過程で労働手段の機械化が進めば進むほど、「労働価値」が上昇し、財1単位の価格下落余地は拡大していく。
“生”の労働力と生産過程で同時的に結びつく、過去の労働成果である労働手段の役割が高まれば高まるほど、財1単位の価格が低下する余地が拡大していくという論理である。
生産過程では、“生”の労働力と過去の労働力(労働成果財)が一体となって労働が行われ、過去の労働の活動成果である労働手段が占める割合が高くなるほど、“生”の労働力が生み出す「労働価値」が高くなり、生産する財1単位に転化する「労働価値」が小さくなることで財の価格を低下させられる余地が拡大する。
※ この項で書いた内容が、たんなる紙幣である管理通貨制での経済状況を分析する際に重要な視点になると考えている。
とりわけ、
『「労働価値」は絶対的という意味で歴史経過的に上昇していくが、より重要なのは、経済主体間とりわけ国民経済間での「労働価値」の相対的な比較での上昇と下降である』と『「労働価値」の相対(比較)的な上昇は、賃金の上昇余地と生産物価格の下落余地をもたらす』という論理がポイントである。
「労働価値」は絶対的という意味で上昇を続けているのだから、“通貨表現ではない”財価格は絶対的に下落していく傾向にある。
しかし、現実の物価は、ここ数年間の日本経済を除けば、基本的に上昇してきた。
これは、純論理的には、インフレがとんでもない高率で進んできたことを意味する。
「労働価値」の相対(比較)的な上昇が賃金の上昇余地もしくは財価格の下落余地をもたらすという論理が、高度成長期を顕著な実例とする実質収入の上昇と国際競争力の上昇を実現したのである。
別途アップする予定だが、外国為替レートも、根源的には、「労働価値」の比較的変動によって規定されるものである。
■ 利潤(利益)の源泉
個別経済主体でも同じことなのだが、国民経済的な意味での利潤(利益)とイメージして読まれるほうがわかりやすいと思う。
利潤(利益)の源泉は、究極的に、国民経済(経済共同体)間の「労働価値」の差にある。別の表現を行えば、同一財の可能価格差にある。(“財の価格”は前述の意味)
そして、利潤(利益)の獲得は、同一使用価値を持つ財の「労働価値」(価格)差を活用して外部国民経済に財を実際に販売することで実現される。
マルクス主義(「資本論」)の剰余価値説は誤りである。(参考書き込みを末尾に紹介)
また、収入から諸経費を差し引いたものという会計学的な説明は、その源泉を説明したものではないので排除する。
日本と米国という二つの国民経済を例に簡単に説明すると、
1Gメモリ1個を日本は0.9gの金に相当する価格で生産し、米国は金1.2gに相当する価格で生産している。
日本は、自国で消費する量を超えた1Gメモリを生産しており、その余剰個数は10万個である。
1Gメモリ1個当たりの米国向け輸送費は金0.1gに相当する。
米国市場での価格差は、日本製金1.0gに対し米国製金1.2gだから金0.2gである。
米国では国内需要に対応した量を生産していて供給不足には陥っていないので、日本は、1個金1.2gでは売れないと考え、1個金1.1gの価格で販売することにした。
10万個は瞬く間に売れた。日本がその取引で得た利益は、(1.1−1.0)×10万=金1万gである。
日本は、米国では1Gメモリがもっと売れると考え、20万個の余剰1Gメモリを生産する体制を敷いた。これにより、1個の販売可能価格も金0.8gに低下した。
米国は、日本からの輸入のために生産量が落ちて1Gメモリの価格が金1.25gに上昇した。
20万個も瞬く間に売れた。日本がその取引で得た利益は、(1.1−0.9)×20万=金4万gである。
この二つの取引で生じた金5万gの日本への流入こそが“真”の利益(利潤)なのである。
この利益が、勤労者の所得上昇や追加的設備投資に投入されることで、国民経済は経済成長していくのである。
日本国内のみの経済取引でいくら利益を上げようとしても、“真”の利益は上げられず、経済成長もできない論理は、下記の書き込みを参照して欲しい。
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※ 参考書き込み
『【世界経済を認識する基礎】「競争モデル」から「独占モデル」へ − マルクス主義批判も若干 −』
http://www.asyura.com/2002/hasan10/msg/940.html
『【世界経済を認識する基礎】「近代経済システム」における利潤と経済成長の源泉』
http://www.asyura.com/2002/hasan11/msg/430.html