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【世界経済を認識する基礎】 “あっしら”的経済概念の説明:近代的預金と「信用創造」(「バブル形成」の考察を含む)〈その6〉 前半部 投稿者 あっしら 日時 2002 年 7 月 13 日 20:37:23:

(回答先: 【世界経済を認識する基礎】 “あっしら”的経済概念の説明:「近代国民経済」の成立条件 〈その5〉 投稿者 あっしら 日時 2002 年 7 月 13 日 20:19:41)

「信用創造」を説明する前置きとして、簡単に「近代経済システム」と科学技術の関係について述べておきたい。


■ 「近代経済システム」と科学技術

ここ200年ほどの近代史は、それまでの歴史過程に較べ、驚異的なペースで物質的生産力を上昇させてきた。
言い換えれば、「労働価値」を急ピッチで高めることで、財1単位の生産に必要な労働力数を飛躍的に低下させてきた。
これは、科学的知識の拡大とそれを生産活動に応用した技術の進展が、生産の仕組みや労働の在り方を大きく変えていった成果である。

「労働価値」=物質的生産力の上昇は、国民経済の人口増加を可能にするのみならず、直接的な生産活動に従事せずその他の様々な社会活動を担う人の数を増やし、それが、さらなる科学技術の進展へとつながっていった。
このような過程を通じて、従来的財の量的な生産力(「労働価値」)の上昇だけではなく、利便財や享楽財などの種類や量も新たに増やした。

近代的発展はそのまま“科学技術の進歩”で説明されてしまうことも多いが、近代経済の発展が“科学技術の進歩”をもたらしたのであって、“科学技術の進歩”が近代経済の発展をもたらしたわけではない。
(事象の因果関係を取り違えると重要なポイントが見えなくなる)


科学技術が進歩するためには二つの条件が必要である。

1)科学技術の研究に従事する人の増加とそのために必要な財の増加を支えることができる経済的基盤

2)科学技術の成果を経済社会で活かすことができる経済システム


1)は科学技術研究が進められる物質的条件であり、2)は科学技術研究に人々が励む動機である。


科学技術の研究に従事する人は、財を消費しても財を生産しているわけではないから、その人たちが生活していくための財を他の人々が生産しなければならない。

さらに、科学技術研究を行うための知識を蓄積したり論理思考を鍛錬するために長期的な養成期間(学校教育や企業研修など)を必要とするので、その期間の生活も支えられなければならない。

そして、科学技術の研究を行うためには、研究設備をはじめ数多くの財を必要とする。それで使われる財は、その研究の成果が消費した財を上回る財的貢献を後からもたらす可能性もあるが、その時点では新たな財を生むものではないので戦争と同じように単なる消費である。また、すべての研究が、財の効率的な生産や新しい財を生み出すかたちの成果を上げるわけではない。

このような科学技術研究の特性を承知の上で、数多くの研究者予備軍を養成し、数多くの研究者の活動を維持していくことは、経済社会にとって大きな負担である。

いわゆる先進諸国は、そのような大きな負担をこなしていける経済的条件を達成したことで、科学技術を進展させていくことができたのである。
大きな負担でありながら科学技術研究が強化されてきたのは、その成果が大きいという国民的共通了解があったからであろう。

国家としては科学技術研究に統治及び軍事という政治的目的もあるが、それだけが目的であれば、現在の北朝鮮やかつての共産主義国家のように、国民経済全体が疲弊してしまう。
経済論理を考える場なので、政治は除外して、経済との関わりに絞ることにする。

前近代においても科学技術研究は行われていた。その中心は、イスラム帝国であり、中国であり、インドであった。(南北アメリカやサハラ以南アフリカは歴史がずたずたにされたので考慮外)
近代科学技術の源流という意味で言えば、アレクサンドリアやバグダットを中心としたイスラムの科学技術研究がそれに当たる。ギリシア時代からの知識や論理を継承し、抽象的な科学研究から実利的な技術研究までが盛んに行われていた。(医学・数学・天文学・化学・造船・航海術・農業技術・ガラス製造・音楽などなど)

しかし、イスラム世界では「資本制経済」が興らず、「資本制経済」は、イスラムの成果をベースにした科学技術研究に励んだ西欧世界で勃興した。

このようなイスラム世界と西欧世界の差異は何に拠るものであろうか。
それは、能力の差ではなく、動機の差である。

個々の研究者が研究に打ち込む動機は様々だろうが、国民経済が科学研究を追求する動機は、科学技術研究が「資本制経済」のメリットに結びつくかどうかに関わってくる。

『【世界経済を認識する基礎】 “あっしら”的経済概念の説明:近代的貿易・外国為替レート 〈その3〉』( http://www.asyura.com/sora/dispute1/msg/905.html )で説明したように、近代的貿易がないまま国民経済の急速な技術的発展=「労働価値」上昇を実現しても、失業者を増加させ、社会秩序の不安定化や崩壊につながっていく。
そして、そのような国内的な矛盾を解消しようとして近代的貿易を追求すると、自国民経済は栄えるが、他者国民経済(共同体)に社会秩序の不安定化や崩壊をもたらす。
(イスラム復古派や一般ムスリムが抱く家族や共同体への思いは深い)

もちろん、失業者は他の活動に従事させるという共同体(国家)統治者の大きな度量があれば問題は解決するが、非労働従事者を増やすという目的のために、そこに至るまでの経済的負担が大きい科学技術研究を進めるという選択は生半可のものではない。

西欧世界で近代的科学技術研究が盛んになったのは、“新世界”アメリから得た富が経済的基盤としてある状況で、近代的(重商主義)貿易が国民経済のシステムに組み込まれ、国外権益がさらに量的拡大を遂げていったからである。(軍事的研究開発も、近代的貿易(市場)の拡大に貢献する手段に役立つものとして重視された)

人類が進化したから科学技術研究が発達したわけでも、西欧が優れた知的発展を遂げたから近代科学技術を生み出し「資本制経済」を確立したわけでもないのである。
(人は変化しても進化はしない。知識や思考経済的な思考方法は歴史的に増大しても、思考力=知力そのものは変わらない)

科学技術研究は、経済論理的に言えば、戦争と同じように国民経済に過大な負担を強いるものである。(戦争よりも、まともな目的を掲げた科学研究活動のほうが比較すらできないほど意義があるが)

このような科学技術の進展に伴う厳しさが、後進国がなかなか近代的テイクオフを達成できなかったり、先進国にキャッチアップできない経済的条件でもある。

後進国民経済の経済主体は、日本が50年前に使っていた生産設備でも、価格が高くてなかなか導入できない。だからこそ、そういう設備を持ち込んで自国の労働者を雇用してくれる外資の誘致に励んだり、電力や通信などのインフラ事業を国家が担うことになる。

先進国の科学技術研究者の労働力費や研究で消費された財、そして、研究成果をかたちにするために投じられた労働力費が詰まった物が、近代的生産設備である。
そのような財の価格が高いのは当然である。そして、先進国の研究者は、過去の研究成果がかたち(財)になったときには、それまでの成果(知的)を次の研究の出発点として、既に新しい道を進み始めている。

89年から90年にかけて東欧ソ連圏諸国が新しい道を歩み始めたとき、それらの国の生産設備が旧態依然であるとの報道もあったが、新しい生産設備の開発や生産のために人的財的資源を割くのか、古い生産設備を継続してその更新に必要な人的財的資源を他に活用するのかという問いは、後進国民経済にとって極めて重大な問題になる。

まだ使える生産設備を廃棄するという経済行為は、個々の経済主体のそのような行為を合算する国民経済レベルで見れば、厖大な人的財的浪費である戦争に匹敵するほど浪費的経済行為と言える。
(戦争こそが国債=国家債務の起源である。そして、戦争は、科学技術を発展させ、「労働価値」を上昇させる役割も果たしている)

日本など先進諸国の経済主体が最新生産設備への更新を進めていけたのは、それが経済的に可能な資金調達条件とそうすることで得られる利益獲得見通しがあったからである。


■ 近代的預金と「信用創造」

研究活動だけではなく、科学技術の成果である機械などの生産設備も、それを導入(購入)する経済主体には大きな負担になる。負担というより、保有している通貨では賄いきれない場合が多い。

競争環境にあれば、「労働価値」を上昇させるために、利用できる(償却が終わっていない)状態の設備を廃棄してでも最新の生産設備を導入しなければならなくなることがある。

厖大な労働成果である生産設備をまだ使える(価値が残っている)段階で廃棄するということは、経済論理的には、今現在生産している財をその場で廃棄することと同じである。(償却分を差し引いた価格で売却すれば経済論理的には問題ないが、それは、“敵”に塩を送ることになる)

経済主体が自身では賄いきれない通貨を調達する方法としては、返済しなくていいかたちと返済を要するかたちのものとがある。

返済しなくてもいいかたちは、経済主体の部分所有権の証書を対価として通貨を手に入れるというものである。(額面でも時価でもかまわないがいわゆる増資である)
返済を要する方法は借り入れである。商業銀行からの借り入れでも、社債による借り入れでも、代表者を含む個人からの借り入れでもかまわない。

増資は、経済主体にとって、返済しないでいいというメリットがある一方で、既存株主の部分所有権が薄まってしまうというデメリットがある。また、経済状況によっては、配当金は期待できるものの元本が戻ってこないものに通貨を投じる人が少ないという問題もある。

国民経済全体が実質的な通貨不足=「労働価値」が低い状況であれば、自由になる(何らかの将来対価で手放してもいい)通貨を保有している経済主体は、通貨発行主体である中央銀行や預金を保有している商業銀行ということになる。

商業銀行は、“配当金は期待できるものの元本が戻ってこないものに通貨を投じる”のではなく、貸し出しを行って利息付きで元本が戻ってくることで資本を増殖させていくことを選択する経済主体である。そして、万が一のために、貸し出しの安全性を保証するために担保を設定する。

自由になる通貨の多くを銀行が保有している状況では、事業を維持したり拡大するために通貨を欲している経済主体は、それを銀行からの借り入れに依拠しなければならないことになる。


● 預金に利息が付く不思議

預金しているのだから利息が付くのは当たり前だと考えるのは、近代人の証拠である。

文字通りを考えればわかるように、金を預けるのだから、コインロッカーに物を預けるときに通貨を支払うように、預け代を支払うのが本来的な“筋”なのである。

金本位制以前の預金は、金貨を自宅に置いておくことに不安を感じる金持ちが手数料を支払って銀行家に保管してもらっていたというものである。

お利口な銀行家は、預かった金貨をそのままじっと保管しておくのではなく、引き取り客に対応できるようある程度の金貨を残しつつ、その他は貸し出しに利用した。
もちろん、利息がついた貸し出しである。金貨を預けた客からは手数料を受け取り、その金貨を他人に貸し出して利息を取って二重の利益を得たのである。

預かった通貨を経済取引に利用するというのが、「信用創造」の起源である。
通貨一つ一つに識別が付いていないことが幸いである。

このようなことを行っても、不意の引き取り客に対応できるだけの量の金貨が手元にあり、貸し出した金貨が最低でも元本ベースで返済されるサイクルが続けば、誰も文句を言わないし問題も発生しない。(元本だけでも返済されれば、利息という利益を得られなかっただけで済む)

しかし、貸し出しの利息はおろか元本までが返済されない事態に陥ると様相は変わってくる。元本の未返済が自己資本(自分の金貨)を超えると、手数料をもらって預かっている金貨を返せなくなる。
そうなった銀行家は、夜逃げをするか、罰を喰らうか、殺されるような目にあうかである。

いつからかは明確ではないが、金本位制になってからは、ある種の預金には利息が付くようになった。
銀行がわざわざ利息を支払ってまで預金をしてもらうというのは、それが見合う経済合理性があるからである。

預かった通貨だからとまじめに考えてそのまま金庫にしまっていても、その通貨量が増えることは経済的的には絶対ない。貸し出しや投資を通じてのみ、銀行の保有通貨は増える。

預金に利息が付くのは、預かった通貨を貸し出しや投資に使って、支払い預金利息よりも多い収益が得られるからである。


● 自己資本比率やBIS規制の意味

「バブル崩壊」後の日本では、金融システムの危機や銀行の破綻が問題になり、銀行の財務状況が連日のように報道されている。

そのような報道のなかには、“自己資本比率”や“BIS規制”という数値や表現も出てくる。

その算出方法や内容をおくとして、“自己資本比率”や“BIS規制”は、銀行が預かった通貨をどれだけリスク(未返済の可能性)があるものに使っているかの指標でありどれだけ使っていいのかという規制である。

商業銀行は、まず、個人金融業のように、自己資本を貸し出して自己資本を増殖させることができる。この場合は、不良債権が生まれても、その銀行が損失を被るだけである。

さらに、商業銀行は、中央銀行から貸し出しを受け、その通貨を別の経済主体に貸し出すことでも資本を増殖させる。別の経済主体に貸し出した利息と中央銀行に支払う利息の差が、資本増殖部分になる。
このような通貨を使った経済取引で不良債権が生まれると、その銀行が損失を被るだけでは済まずに、中央銀行までもが損失を被る可能性がある。
(無価値のものを貸し出しているのだから、損はないように思えるが、返済されてこないということは国民経済のどこかに存在していることであり、それを補うために通貨を発行すると通貨の価格表示機能を弱めることにはなる。しかし、管理通貨制であればいかようにも通貨の価格表示機能を調整できるのだから結局はモラルの問題に帰す)

しかし、日本経済をマクロ的に見ると、00年の銀行預金残高総額が486兆円なのに対し銀行貸出残高総額は464兆円であることからわかるように、ほとんどの貸し出しは預金で賄われているとも言える。(普通預金は回収日(給料日)がピークで、経済主体では支払い日に底に達し、個人では徐々に引き出されていき、次の(入金日)給料日を迎えるという構図だから、決済性預金は貸し出しにはあまり使えないものであるが)

(92年から98年は預金残高よりも貸出残高のほうが多く、この期間の“異常性”が窺われる。58年から00年までの期間で貸出残高のほうが多いという状況は、92年から98年の間のみである。92年から98年の間に投入公的資金を含む不良債権処理原資を貯め込み、99年から不良債権処理=過剰債務企業の破綻と“貸し渋り”・“貸し剥がし”を大々的に進めて財務状況を正常化していった過程が見える)

預金を使った貸し出しに不良債権が生まれ担保権の行使では全額が回収できなかったり、預金を使った投資で確定の損失が生じると、預金の払い戻しに応じきれないという事態に陥る。
そのような事態を、公的資金を基礎とした保険(補填)で、全額対応するか、それとも、まったく責任のない預金者に罰を与えるがごとくある限度額にとどめるかという話が、「ペイオフ問題」である。

(政府は、問題をすり替え、銀行経営者のモラルと結びつけてペイオフを語っているが。こうして考えれば、不良債権の定義が「利払い状況」になっているのも不可思議である。利息は銀行の収益源であり、預金が使われているのは元本部分である。元本が返済される見込みがあるのかないのかが不良債権の基準でなければならない)

銀行の貸し出しは、私的経済主体に対してだけではなく、中央及び地方という政府に対しても行われている。いわゆる国債を始めたとした公債の引き受けや直接の貸し出し行為である。銀行は、このような公的機関に対する債権を150兆円以上保有していると見られる。これは、預金残高総額のおよそ30%に相当する。

(ここでは簡単にとどめるが、経済活動を自立完結的に行っている経済主体のほうがスムーズに債務を返済できる可能性が高く、究極的には税収に依拠している擬制経済主体である政府のほうが債務返済は困難である。税収を上げようと考えて増税を実施すると、経済主体の経済活動を阻害するため、税収は逆に減少してしまうという事態に陥ることもある)


このように考えていけば、“金融危機”の源は、銀行が預金を使って貸し出しや投資を行っている「信用創造」だということがわかる。

銀行が、自己資本や中央銀行からの借り入れを原資に貸し出しや投資を行っている限りにおいては、銀行が破綻しても、預金が戻ってこないということはない。
(貸し出しは担保にとって行われているので、担保権を行使すれば、未返済であっても問題は起きないはずだが、銀行が貸し出しを通じて「バブル」を形成したのだから、その崩壊で担保物件の価額も大きく減った。このように政府が考えているからこそ、土地や株式といった金融資産を買い支えるという妄動を行っているのである)


経済学を学んでいる方であれば、書いていることはわかるが、「信用創造」は、マクロ的に存在する余剰資金を有効活用する唯一の手法だと言われるであろう。

しかし、経済論理を考えるに当たっては、はいそうですねというわけにはいかない。
「信用創造」とは何であるかを経済論理的に解き明かす必要がある。

比喩的な結論を言うと、「信用創造」とは、断りをしないまま預金者を強制的に銀行家にしてしまう行為であり、預金者に断りなく預金を使ってしまう行為である。

これを明白なかたちで晒したのが、「バブル崩壊」後の“金融システム危機”であり、公的債務規模が示している危機的な状況である。

預金をしている人は、自分はお金を銀行に預けていると考えているだろう。
しかし、経済論理に照らせば、預けたお金は、自分が了承しないまま使われてしまっているのである。

銀行が一般経済主体に貸し出した通貨は事業の拡大や継続のために使われ、銀行が政府部門に貸し出した通貨は、公務員を雇ったり財を購入するために使われたり、従来からの債務に対する利払いや償還に使われる。

知らない間に、自分が預けた通貨が、国民経済内はおろか国際的にもぐるぐると使われながら回っているのである。ぐるぐるであっても、まわり回って自分のところに戻ってくるのが、“正常”な経済状況と言えるものである。


現在の日本のような経済状況では、銀行が行ってきた「信用創造」をとんでもないことだと思う方もいるかも知れないが、日本経済が敗戦の荒廃から見事に甦ったのは、そのような経済行為が行われたからこそである。


● 経済成長と「信用創造」

先進国民経済が驚異的な発展を遂げたのは、「信用創造」というマジックが行われたからである。

「信用創造」というのは、中央銀行→商業銀行→一般経済主体という貸し出しの流れと預金を使った貸し出しである。

マジックというわけの一つは、金本位制でも中央銀行は1/4に薄まった通貨を1/1の価値があるものとして発行していたことであり、管理通貨制では無価値の通貨を“資本の論理”という規制に従ってのみ発行していることである。
“資本の論理”という規制は金という物理的量が与える規制よりは数段緩やかなので、管理通貨制は、金本位制とは比較できないほどの「信用創造」機会を生み出す。

もう一つのマジックは、預かった通貨を預けた主体の明確な了承を受けないまま貸し出しに使っていることである。
これも、金本位制であれば、中央銀行に兌換請求が来る可能性があるので、貸し出しの始源である紙幣発行を制御したり、商業銀行の貸し出しを規制する働きにつながる。
しかし、兌換の心配がまったくない管理通貨制であれば、そのような制御や規制は“資本の論理”に依拠するだけとなり、金本位制に較べると数段緩くなる。


最初のマジックは中央銀行の特権であり、商業銀行はそれで量的な恩恵は受けるが質的な恩恵を受けるわけではない。
商業銀行が得る特権は、預かった通貨をある範囲までまら貸し出しに使えるというマジックである。
(決済預金で生じる当座の払い戻しと適正預金で生じる払い戻しと解約を考慮した残りの預金を国債の引き受けに使うのであれば実質的に規制はないものになる。国債は、リスクゼロすなわち自己資本比率の計算において資産とみなされないからである)


敗戦後の日本経済は、近代的経済活動を既に修得している人材と米国を中心とした経済支援や国際借り入れという通貨的条件をベースに再出発を始めた。

極論すれば、近代的経済活動力を内包している人々はいるが、そのような人々が持っている活動力を発揮する場である“資本”がないという状況から復興が始まったのである。

米ドルでの国際借り入れは、国内では日本円という通貨になって流通し、輸出入で生じる保有米ドルの増減は、対外債務の履行に不都合が起きないよう、通貨当局によって厳重に管理されるということを前提に、国内のみに目を向けて「高度成長期」を振り返ってみる。(「高度成長期」は、基本的に、経常収支は赤字である。貿易収支も、68年から黒字基調に転じた)

「高度成長期」の日本は、58年から70年の間に、通貨発行残高が6.23倍、マネーサプライ(M2+CD)が7.57倍になった。
同期間の預金残高は6.37倍になり、貸出残高は6.79倍である。郵便貯金残高は、8.34倍である。
同期間の家計実収入は3.1倍で、家計消費支出は3.0倍になった。
同期間の消費者物価は1.8倍で推移し、70年/60年の卸売物価は1.1倍である。

銀行が経済主体に貸し出した通貨がすべて労働成果財の生産活動のために使われたという前提で、「労働価値」を上昇させる設備投資にどれくらい貸し出しが貢献したかを推定すると、卸売物価が1.1倍で就業人口は1.18倍だから、国民経済的な「労働価値」は5.2倍程度になったと思われる。(貸出残高倍数/卸売物価倍数/就業人口倍数)

原材料の購入なども増えるので、58年から70年にかけて、「労働価値」が5倍になったと考えることができる。(別の推計方法法を後述)
家計実出入は3.1倍だから、5倍と想定する「労働価値」上昇との差が、輸出を通じて経済主体の利益になったと推定できるが、その多くは、利益(余剰資金)→返済・利息・預金→貸し出しという流れで再び資本化され、「労働価値」の上昇に貢献していったと考えられる。

卸売物価は1.1倍でしかないから、同じ用途の機械が質を高めたものでありながらほぼ同じ価格で買えたことを意味し、これが、「労働価値」の上昇に大きく貢献したはずである。(原材料や機械装置などの中間財を生産する経済主体の「労働価値」が大きく上昇したことでもある)

ちなみに、58年から70年の間に、粗鋼生産高:7.7倍、TV:11.4倍、乗用車:62.3倍、最終エネルギー消費:4.3倍という伸びを達成している。
これは、「労働価値」の上昇という質的側面と該当経済主体の就業者数増加という量的側面から達成されている。

同期間の通貨発行残高が6.23倍なのに対し家計実収入は3.1倍なので、増加した通貨の多くが経済主体の設備投資向け貸し出しに回ったと推定できる。

そして、この期間の預金残高の伸びは、消費も収入に連れて伸びている家計よりも経済主体に主として支えられていると推定できることから、増加した通貨が貸し出しを通じて経済主体に渡り、その通貨で経済活動を行って得た利益(余剰資金)が返済に回されたり預金に回され、それが「信用創造」のベースになって経済主体への次の貸し出しに回るという循環を経ながら増加していったと思われる。


「高度成長期」の経済論理的な流れは、

1)中央銀行の通貨発行量の増加をベースに商業銀行が経済主体に貸し出す。

2)経済主体は、借り入れ通貨を設備投資と呼ばれる「労働価値」の上昇と量的拡大の目的に使い、輸出と国内向け販売を通じて売上と利益を拡大する。
 (生産した財を直接は輸出しない経済主体も、輸出経済主体の利益を分配してもらうことで利益を拡大する。農民などの利益拡大も政策を通じてだが同じである)

3)経済主体の拡大した利益(余剰資金)は、利息付きで借り入れの返済に充当されるとともに当座使う用途がない部分が預金などの金融資産取引に回される。

4)銀行は、返済された貸し出しのなかから中央銀行に利息付きで返済を行い、その差額である収益を自己資本とし、さらに増加していく中央銀行の貸し出しと増加した預金を加えた通貨を経済主体に貸し出していく。

5)1)から4)を通じて、58年から70年のあいだに、実質GDPで3.2倍(名目は6.4倍)の経済成長を遂げた。

というものである。

名目GDPが6.4倍になったのは通貨発行量が6.2倍になったことが主因で、実質GDPが3.2倍になったのは、「労働価値」が上昇し、その成果が輸出の拡大できちんと実現されたからである。実質GDPの3.2倍と「労働価値」上昇の推定値5倍がずれているのは、GDP統計の問題が大きいが、就業者人口の増大(1.2倍)や労働成果財の生産活動や消費に向けられない通貨があったことも思慮できる。
(就業者人口の増大は実質GDPを増加させる要因になる。労働成果財の生産活動や消費に向けられない通貨の増加は実質GDPを減少させる要因になる)


「高度成長期」は、通貨発行量の増加と貸出量の増加で、『「労働価値」上昇条件である生産設備の更新→「労働価値」上昇を意味あるものにするための輸出の拡大→利益額の拡大』というサイクルが順調に継続し、家計実収入も、消費者物価が1.8倍でありながら3.1倍まで膨らんでいった。(家計収入は実質財価格ベースで1.7倍)

高度成長期に、高校及び大学(含む短大)のそれぞれの進学率は、

     高校   大学
          男性   女性
======================================
58年 53.7 19.0 13.3
70年 82.1 25.0 23.5


と推移した。

それと同時に、経済主体の内部においても、将来のために研究開発を続ける体制が強化されていったはずである。(民間経済主体や公的など非民間研究機関の研究開発費(人員)推移のデータが手元にないので推定)


通貨発行量の増加が「労働価値」の上昇につながらなければ、物価が通貨発行量に比例して上昇するだけである。(就業者数の増加はそれを緩和する)
また、「労働価値」の上昇が輸出の拡大につながらないものであれば、良くて物価の下落で不況感が漂う状況、悪い場合は失業者の急速な増加で政治不安を招いていたであろう。

(まともな統治者であれば、高度成長期の与件と違っていれば、通貨発行量の増加そのものを控えていたはずである)

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