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【「旧約聖書」再確認】 アダム「原罪論」はパウロやキリスト教神学者の錯誤の産物 投稿者 あっしら 日時 2002 年 5 月 23 日 00:12:50:

「空耳18」ボードで【「旧約聖書」再確認】の連載を行っているが、キリスト教に関わる問題なのでこちらに書き込み、多くの人の理解を問いたい。
とりわけ、キリスト教信仰者の助言をいただければ幸いである。

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不勉強なのでそうではないキリスト教分派があるのかもしれないが、カソリック・正教会・プロテスタント諸派・統一教会のどこもがアダム「原罪論」を教義としている。

その根拠となる出典は、パウロが書いたとされる「ローマ人への手紙」と「コリント人への第一の手紙」である。(引用文は日本聖書協会「新約聖書」1954年改訳による)


「ローマの信徒への手紙」第5章12〜15節

「 このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。というのは、律法以前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪として認められないのである。しかし、アダムからモーセまでの間においても、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も、死の支配を免れなかった。このアダムは、きたるべき者の型である。しかし、恵みの賜物は罪過の場合とは異なっている。すなわち、もしひとりの罪過のために多くの人が死んだとすれば、まして、神の恵みと、ひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、さらに豊かに多くの人々に満ちあふれたはずではないか。」


「コリント人への第一の手紙」第15章22節

「アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。」


この教義が錯誤の産物というのは、「旧約聖書」の「創世記」を読む限り、アダムが初めて罪を犯したことで死を免れなくなったとは理解できないからである。

パウロは、「聖書はすべて神の言葉である」という聖書理解の原則を破った“背教者”であり、それをそのまま受け継いでいるキリスト教の宗教的指導者も“背教者”だと言えると考えている。


● 「旧約聖書」から理解できるアダムとエバの出来事

※ 該当部分の日本語訳は次のURLを参照して欲しい。

http://www.asyura.com/bible/sc/j/ot/gen/2.txt

http://www.asyura.com/bible/sc/j/ot/gen/3.txt


アダムのエバに関する出来事のあらましは、

★ 神が土のちりから後にアダムと呼ばれることになる生き物としての人を創造した。
★ 神は、食べ物としてよい実が生る木を生えさえ、園の中央に「命の木」と「善悪を知る木」を生えさせた。
★ 神は「エデンの園」に人(アダム)を置き、耕させ、守らせた。
★ 神は人(アダム)に「善悪を知る木」の実を食べてはいけないと命じた。
★ 神は人(アダム)の助手として、人のあばら骨から女を造った。
(これが、親からの独立と結婚の言われ)
★ 人とその妻は当初裸であることを恥ずかしいと思わなかった
★ 蛇が、女に、中央にある木の実を食べても死ぬことはないと食べることを唆した。
★ 女は、「善悪を知る木」の実を採って食べ、夫にも与え、夫(アダム)も食べた。
★ 二人は、裸でいることに気づき、イチジクの葉で腰のあたりを隠した。
★ 神は、二人が裸でいることに気づいたことから、「善悪を知る木」の実を食べたことを知る。
★ 人は、「女がくれたので食べた」と神に答えた。
★ 女は、「蛇が騙したので食べた」と神に答えた。
★ 神は、蛇に呪いをかけた。
★ 神は、蛇と女に恨みを抱き、蛇と人との将来にわたる格闘を示唆する。
★ 神は、女に、お産の苦しみを与え、夫を慕い、夫の支配に置かれるようにする。
★ 神は、人(アダム)に、神の言葉よりも妻の言葉に従ったことを非難し、労働で食物を得なければならないようにする。
★ 神は、「人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかもしれない」と言い、エデンの園から追放した。


● 人には“永遠の生”が予定されていたのか

パウロが“背教者”ではないためには、神に創造された人が永遠の生を予定されており、「善悪を知る木」の実を食べた罪によりそれが取り消されていなければならない。

パウロは、「ローマ人への手紙」のなかで「ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきた」と書いている。

「創世記」のどこにも、明示的には、初めての罪を犯すまでのアダムが永遠の生=不死を予定されていたとは書かれていない。

そうかも知れないと思わせる記述は、次の二つである。

1)「善悪を知る木」を食べた後、神が人(アダム)に語った「あなたは土から取られたのだから、あなたは、ちりだから、ちりに帰る」

 これは、生き物としての人の生死を再確認したものと考える。

 その前にある「あなたは一生、苦しんで地から食物を取る」や蛇に対する「一生、ちりを食べるであろう」という言葉との関係で考えたほうがすっきりする。

 蛇は、人を唆したことで人の元であるちりを食べるハメになり、人は、自分の元である地を耕すことでなんとか自分の生存を維持できるハメになるという理解である。
 そして、ちりから生まれた人は死んで元のちりに戻るという生命と非生命的自然に関する循環的説明であり、死んで土に戻る理由を神が説明したと捉えたほうがいいだろう。


2)女が蛇に言った「これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」

 食べたら死ぬということであって、食べたら死ぬようになるとは言っていない。神は、食べないようにとの命令を守らせるために、ウソで脅していたということだろう。

一方、人に永遠の生が予定されていなかったと思わせる記述は、

1)神は、「善悪を知る木」とともに「命の木」を生えさせ、ともに食べるなと人に命じたこと

2)神は、人(男=アダム)を「エデンの園」の守りとし、人(アダム)だけでは不十分だと考え、男から女を造り、結婚のいわれを語っていること。

 アダムとエバでその役割が十分果たせ、不死であるのなら、結婚して子孫を残す必要性はないだろう。


3)人がもともと死すべきものであったらしいことを示す重要な記述は、神が、「人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかもしれない」と言って、エデンの園から追放したことである。
 人がもともと永遠の生を予定されたものであるのなら、神は、「命の木からも取って食べ、永久に生きるかもしれない」とは言わなかったであろう。


● アダムに罪を負わせるパウロの暴挙

パウロは、アダムが罪を犯したと書いているが、神は、アダムに呪いをぶつけたが、罪を犯したとは言っていない。

神は、当然のようにパウロよりも聡明であり、物事の善悪をちゃんと識別しているのである。
なぜなら、アダムもエバも、「善悪を知る木」の実を食べる前は善悪を識別できない存在だったからである。
善悪を識別できないものに罪を犯したという指弾はできないから、神は、罪を持ち出して非難したり、罪の代償として罰を与えるとは言わなかったのである。

神が、アダムやエバに聖書の内容のような仕打ちをしたのは、命令を守らなかった怒り(善悪の識別ができないのだから罪は問えないので、理不尽とも言える怒り)であり、人が神のような存在になることを恐れたからであろう。

何度も引用するが、神は、「人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかもしれない」と考えたのである。
人は、「善悪を知る木」の実を食べることで、姿形が神に似ているだけであったものが、善悪の判断まで同じものをもつようになったのである。
そう、後は「命の木」の実を食べるだけで、人が神になってしまうのである。

創造主になれるかどうかは別として、人が神のようになる事態を防ぐために、「エデンの園」から追放したのである。


パウロが書いたような、「ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきた」のではなく、“ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、神の怒りとねたみをかったために可能性があった永遠の生を逃してしまった“のである。

「罪がこの世にはい」ったのは、「善悪を知る木」を食べたことではなく、「善悪を知る木」を食べた結果として善悪を知るようになったからである。


● 統一協会の教義や「堕落論」

「原理講論」は、パウロの考えからさらに進んで、蛇を堕天使と考え、エバはそれと姦淫をしたとまで拡張解釈をしている。

「旧約聖書」から読み取れるのは、蛇に唆されたくらいだから、“女はひとに唆せられやすい”生き物なので、夫の支配に置かれるのがふやわしいということくらいである。


アダムとエバの出来事を原罪と捉えることでも“背教”だが、姦淫を持ち込まれたり、「堕落」を持ち込まれると失笑せざるを得ない。

人は、「善悪を知る木」を食べることで、実り豊かな「エデンの園」での安逸の日々を失いことになった代わりに、善悪を知ることができるようになり、労働という苦労を背負うことにはなったとしても、家族や共同体を形成し土地を耕すことで生きていけるようになったのである。

「堕落」どころか、神の命令に反した行為をしたことにより、人は神に一歩近づいたのである。

そして、神も人が善悪を知るようになったから、以降の「旧約聖書」のように、罪を問い、罰を与えることができるようになったのである。

「エデンの園」の出来事は、結婚によって家族を形成し、労働しながら生存を維持し、最後には死んでいくという人の一生や、罪と罰の正当性を説明したものと考える。

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