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(回答先: Re: 隣人さん、ありがとう 投稿者 あっしら 日時 2002 年 6 月 04 日 00:14:17)
あっしらさん、こんばんは。
神の考えを人は理解できますよ。もちろん、神のお考え全てを人が理解
することはできませんが、それでも”人は神の語った言葉以外の意思を理
解できない”と極端な考えをとる必要はありません。
たとえば、神は聖書以外にも創造された被造物を通して人間に語りかけてもいます。
天は神の栄光を物語り、大空はみ手の業を示す。昼は昼に語り伝え、夜
は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくても、
その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう。(詩篇19:1〜5)
主よ、み業はいかに大きく、御計らいはいかに深いことでしょう。愚か
な者はそれを知ることなく、無知な者はそれを悟ろうとしません。(詩篇92:6、7)
また、ヨセフがポティファルの妻の不道徳な誘いを拒んだことも考えてみ
てください。(創世記39章)このとき、神は姦淫を非とする成文律法を
まだ与えてはおらず、別の人の妻と関係を持ったものに対する神の刑罰は
何も規定されていませんでした。それでもヨセフは、神に関して知り得た
限られた知識から(創世記2:24、12:18〜20)、夫婦間の忠実
に関する神の原則を理解し「どうしてそのように大きな悪を働いて、神に
罪を犯すことができましょう。」(創世記39:9)と述べることができ
ました。神はこのヨセフの言葉を背信的言辞であり、思い上がった態度で
あると見なしたでしょうか。
神は、むしろわたしたち人間が知恵や洞察力を働かせ、神を見いだすこ
とを望んでいます。−箴言 2:1〜9、ダニエル12:9、10。
>「何が善で何が悪かを自分で決定し」というのは、道徳的識別力を道徳
>的決定力と言い換えることで整合性をとろうとした論理だと思いますが、
>これも、神の絶対性をないがしろにしていると思います。
とはいっても、人類はアダムのとき以来今日まで、何が善で何が悪かを自
分決定し、それに従って行動してきていますよね。
>「神は理性のある人間にそれを拒むはずがない」と“善悪を知る木の実”
>を食べることを神は拒んだと解釈しているようですが、神は、“善悪を知
>る木の実”を食べることを拒まず、アダムと女が食べるに任せました。
>神が拒めば、アダムとエバは“善悪を知る木の実”を食べることはできな
>かったはずです。罪を犯せば、神が拒むこともできるというのは、やはり
>神の絶対性をないがしろにする説明だと思います。
善悪を知る木の実が神にとってそれほど人に触らせたくないものであれば、
それを人の手の届かない所に置いたり、あるいはみ使いにより番をさせるこ
ともできたでしょう。(創世記3:24)
でも神は、あえてそのようなことはしませんでした。そこにはどんな目的が
あったのか考えてみることはできませんか。
ところで、不思議に思うのですが、あっしらさんは、神の存在を信じたり、
聖書が神の言葉であるとの信仰はお持ちなのですか?