★阿修羅♪ ★阿修羅♪ |
|
次へ | 前へ |
(回答先: Re:脚注者やパウロの“背信性”について 投稿者 あっしら 日時 2002 年 6 月 11 日 16:36:26)
こんばんは、あっしらさん。
色々とご意見をお聞かせいただきありがとうございます。
「不明でありながらも、聖書を読むに当たって、『聖書が神の言葉である』
という前提意識を持って」いらっしゃるとのこと。少なくとも、その点では
共通の認識があるようで、嬉しく思います。
ただ、クリスチャンは、聖書全巻が神の霊感を受けたものであると信じてい
ます。(テモテ第二 3:16)。聖書筆者の一人ダビデも次のように語りました。
「ヱホバの霊(みたま)わがうちにありて言いたまふ、そのさとしわが舌に
あり。」(サムエル第二23章2節)。
ゆえに、先に引用した詩篇19章1〜5節の記述も、ダビデが”勝手に”
感じた個人的な見解ではなく、それを神の言葉、聖書として書き記すことを
神は良しとされたと理解しています。そしてもちろん、パウロの次の言葉も
です。「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠
の力と神性は被造物に現われており、これを通して神を知ることができます。
したがって、彼らには弁解の余地がありません。」(ローマ1章20節)。
>ヨセフは、神はそのようなことを悪だと考えるだろう、神が悪だと思う
>ことをなすのは罪を犯すことだと考えたに過ぎません。
>アダムとエバの話のなかで夫婦のことは語られているので、それをベー
>スにした判断だと思われます。
あっしらさんの解釈は、たいへん妥当な解釈だと思いますよ。
そして、エルサレム聖書の創世記2章17節の注解も同じように妥当な解釈
だと思います。
わたしの解釈は、神は人間を、初めから道徳的識別力のないロボットのよう
な退屈な存在としては創造されなかっただろう、ということです。それはわ
たしも聖書全巻を読む限り、また、神のかたちに創造された人間として素直
に感じる限りです。(箴言27:11、エゼキエル28:12〜19、コリ
ント第二9:7、創世記1:26)。盲目的に服従する、道徳的識別力のな
い者に律法を与えても意味がありませんものね。
>私は、神は“善悪を知る木の実”を食べることを拒まなかったと
>いう解釈をしています。
>全能であるものが食べることができる条件にしていたのですから、
>神は、人が“善悪を知る木の実”を食べることになったらそれは
>それで仕方がないと考えていたと思っています。
わたしも、それは同意見です。
>労働なしで生存が確保できる代わりに・・・。
アダムがエデンにいたときでも、労働がなかったわけではありませんよ。
地上の生き物を管理することや、限定的だったエデンの園の境界を広げるな
どの建設的な仕事があったことでしょう。(創世記1章28節)