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(回答先: Re: 隣人さん、ありがとう 投稿者 隣人 日時 2002 年 6 月 10 日 01:05:57)
隣人さん、こんにちわ。
最初に、最後の質問に答えたほうがいいでしょう。
>ところで、不思議に思うのですが、あっしらさんは、神の存在を信じたり、
>聖書が神の言葉であるとの信仰はお持ちなのですか?
人の感覚・悟性・理性という認識能力を超えた存在があるだろうとは考えていますが、それが人格神や単一の超越神であるかどうはわかりません。
自身の経験から、人は“直接知”ができず、あらゆる認識を媒介を通じて行っているに過ぎないと考えています。(このことから、人は知的な意味だけでも全能の存在にはなり得ないとおもっています)
この意味で、科学的世界観は、真理や普遍的法則ではなく、一つの説明体系だと受け止めています。(近代科学は、抽象的超越神を追求する行為とも言えると思っています)
神については、ヒンドゥーで考えられているブラフマン(梵)に親近感を感じたり、近代科学的な「相互連関的な運動」というものにそれらしいものを感じます。
「聖書が神の言葉であるとの信仰」を持っている人が少なからずいると考えていますが、「聖書が神の言葉である」かどうかはわかりません。
不明でありながらも、聖書を読むに当たって、「聖書が神の言葉である」という前提意識を持っています。
● 「詩編」について
>神は聖書以外にも創造された被造物を通して人間に語りかけてもいます。
人間も被造物ですから被造物相互の関係で、被造物が神の栄光や力を“勝手に”感じるというのもので、“神が人間に語りかけている”かどうかは不明です。
人は、“神が語った言葉以外の神の意思を理解できない”限定的能力しか持っていない被造物だと思っています。
● ヨセフの不倫自戒問題
>神はこのヨセフの言葉を背信的言辞であり、思い上がった態度であると見なしたで
>しょうか。
私は、聖書を読む限り、「善悪を知ることは道徳的識別力を持つこと」だと考えざるを得ないということを主張しています。
ヨセフは、パウロや「エルサレム聖書」脚注者のように神が語ってもいない(私は語った内容を曲げて解釈と考えていますが)ことを神の言葉として語ったわけではありません。
ヨセフは、神はそのようなことを悪だと考えるだろう、神が悪だと思うことをなすのは罪を犯すことだと考えたに過ぎません。
アダムとエバの話のなかで夫婦のことは語られているので、それをベースにした判断だと思われます。
ヨフフの言動をもって、パウロや脚注者の“背信”を免罪することはできません。
隣人さんが、「神はこのヨセフの言葉を背信的言辞であり、思い上がった態度であると見なしたでしょうか」と問いかけられることにズレを感じます。
● ダニエル書
> 神は、むしろわたしたち人間が知恵や洞察力を働かせ、神を見いだすこ
>とを望んでいます。−箴言 2:1〜9、ダニエル12:9、10。
“善悪を知る木の実”を食べたのですから、神は、人にそう望んでいると思いますが、人がそうして得た判断が神の意思と同じかどうかは別の問題です。
● 本論について
>>「何が善で何が悪かを自分で決定し」というのは、道徳的識別力を道徳
>>的決定力と言い換えることで整合性をとろうとした論理だと思いますが、
>>これも、神の絶対性をないがしろにしていると思います。
>とはいっても、人類はアダムのとき以来今日まで、何が善で何が悪かを自
>分決定し、それに従って行動してきていますよね。
隣人さんが言われている真意はわかりませんが、それが、神の意思と一致しているかどうかは不明です。
非ユダヤ教徒や非キリスト教徒ならそれで問題ありませんが、ユダヤ教徒やキリスト教徒であれば、「人は善悪の判断をしても、善悪の決定はできない」と考えるべきだと思います。
そのような意味で、「神の絶対性をないがしろにしている」と書いたのです。
>>「神は理性のある人間にそれを拒むはずがない」と“善悪を知る木の実”
>>を食べることを神は拒んだと解釈しているようですが、神は、“善悪を知
>>る木の実”を食べることを拒まず、アダムと女が食べるに任せました。
>>神が拒めば、アダムとエバは“善悪を知る木の実”を食べることはできな
>>かったはずです。罪を犯せば、神が拒むこともできるというのは、やはり
>>神の絶対性をないがしろにする説明だと思います。
> 善悪を知る木の実が神にとってそれほど人に触らせたくないものであれば、
>それを人の手の届かない所に置いたり、あるいはみ使いにより番をさせるこ
>ともできたでしょう。(創世記3:24)
>でも神は、あえてそのようなことはしませんでした。そこにはどんな目的が
>あったのか考えてみることはできませんか。
私は、神は“善悪を知る木の実”を食べることを拒まなかったという解釈をしています。
全能であるものが食べることができる条件にしていたのですから、神は、人が“善悪を知る木の実”を食べることになったらそれはそれで仕方がないと考えていたと思っています。
隣人さんのレス内容は、私に対してよりも、パウロや脚注者に対して投げかけられるものだと思いますが...
「罪を犯せば、神が拒むことでさえできる」という脚注者の考えは、神の絶対性をないがしろにする言説です。ユダヤ教・キリスト教・イスラムの教理から言えば、神が拒むことを人はできないはずです。人が罪を犯せるのは、神がそれを悪と考えたり罰を下したりするとしても、拒んではいないからです。
神がそうした目的については、神は、人にある程度までの自立性を与えることになってもいいと考えていたと思っています。
労働なしで生存が確保できる代わりに善悪を知ることなく生きる存在から、善悪を知ることで労働によって生存を確保しなければならない存在への転換です。
そして、善悪を知ることによって、罪と罰という概念と行為が正当なものになり、神と契約を結ぶことができる存在になったと考えています。