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(回答先: Re: 【「旧約聖書」再確認】 アダム「原罪論」はパウロやキリスト教神学者の錯誤の産物 投稿者 隣人 日時 2002 年 6 月 01 日 23:01:18)
フォローのレスありがとうございます。
「エルサレム聖書」の脚注は、神の考えを人が理解できるという立場であり、論理にも無理なものがあります。
>また、それは道徳的識別力でもない。というのは、堕落する前の人間がすでにそれを
>持っていたし、神は理性のある人間にそれを拒むはずがないからである。
善悪を知ることは、道徳的識別力とも理性とも違うということになります。
そのために、道徳識別力の代わりに道徳的決定という考え方を持ち込んでいます。
「堕落する前の人間がすでにそれを持っていた」という記述は、「創世記」を読む限り不明のものを人が勝手に解釈したものでしかありません。(オリジナルで書いたように、「創世記」を読む限り、それを持っていたとは解釈できません)
「この知識とは、神がご自分のために取っておかれる権利であり、人が罪を犯すことによって取得する権利である」とありますが、罪を犯せばとることができる神の権利というのは、神の絶対性を貶める説明だと思います。
また、「神は理性のある人間にそれを拒むはずがない」と、神の意志を“はずがない”と決めつけるのも背信的言辞です。人が神の語った言葉以外の意志を理解できると考えること自体が思い上がりです。
「その知識とは何が善で何が悪かを自分で決定し、それに従って行動する力のことであり、人間が創造された者という自分の立場を認めようとしない、完全な道徳的独立を求める権利のことである」については、後半部分は了解できますが、「何が善で何が悪かを自分で決定し」というのは、道徳的識別力を道徳的決定力と言い換えることで整合性をとろうとした論理だと思いますが、これも、神の絶対性をないがしろにしていると思います。
「旧約聖書」を読めばわかることですが、神は、被造物=人が道徳的決定を行っても、それが間違っていれば修正を求め罰を下します。人は、道徳的識別はできても、それが正しい道徳的決定かどうかは決定できないと考えるのが、神の絶対性を信じる人の立場と思います。
“善悪を知る木の実”を食べても、何が善で何が悪かを自分で判断できるだけで、決定することはできないのです。たとえ決定できると錯覚しても、神はそれを許さないのです。
「神は理性のある人間にそれを拒むはずがない」と“善悪を知る木の実”を食べることを神は拒んだと解釈しているようですが、神は、“善悪を知る木の実”を食べることを拒まず、アダムと女が食べるに任せました。
神が拒めば、アダムとエバは“善悪を知る木の実”を食べることはできなかったはずです。
罪を犯せば、神が拒むこともできるというのは、やはり神の絶対性をないがしろにする説明だと思います。
>ゆえにパウロは、テモテ第一の手紙2章14節で、『エバはだまされたが、アダムは
>だまされなかった』、と記しています。
オリジナルに書いたように、神は、アダムよりも女(エバ)に怒りを持ったと解釈できます。
この後に続く、「しかし、女が慎み深く、信仰と愛と清さを持ち続けるなら、子を産むことによって救われるであろう。」は、「創世記」の解釈としてはずれています。
「創世記」では、女が子を産むことと女が救われることはなんら関係づけられていません。
パウロが、女は慎み深く男を立て子供を産むことに励むのがよろしいと考えていることはわかりますが、女はお産が苦しいものになるが男に従うようにという神の意志を勝手に拡大解釈しています。