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(回答先: 【「旧約聖書」再確認】 アダム「原罪論」はパウロやキリスト教神学者の錯誤の産物 投稿者 あっしら 日時 2002 年 5 月 23 日 00:12:50)
仏教的伝統では迷いと苦悩に満ちた人間的存在の原因は「分
別智」であるとされる。分別智とは、直接的経験・情動を言語
的に分節しカテゴリーと個物で構造化された世界を作り、それ
を善悪などの価値判断でさらに人間的に意味づけしていく理性
的機能を言う。
「善悪を区別する知恵」とはまさに分別智のような「理性」
のことを指すのだろう。聖書でも理性の獲得が「楽園追放」の
原因となっているのは仏教と似ていなくもない。
理性の獲得によって直接的経験・情動、すなわち「自然」か
ら乖離した人間は、生殖や排泄という「本能」や「自然」を満
たしたり処理するための身体部分を露出させることを恥じるよ
うになった。自分自身の自然を世界に露出することは自然・他
人と自分との間に距離を置き境界を設ける理性の嫌うところな
のではなかろうか。ここでもまた、人間の迷妄・苦悩の根源に「主客の分離」、「自他の分離」、「自分と対象世界の分離」
などの「二元論的思考」を見る仏教的伝統と類似性を示してい
る。
理性によって自然から乖離した人間は、自分の自然、すなわ
ち本能や情動を意識的に制御し、外の自然に意思をもって働き
かけることによって生存し苦痛をさけ快を得ようとするように
なる。こうして人間はルールと秩序ある社会を形成できるよう
になり、学問(理性による自然の認識)し労働(理性による自
然への働きかけ)をするようになったのである。これが、「あ
なたは土を耕して労働して生存しなければならない」というこ
との意味であろう。
人間はコミュニケーション手段ともなる言葉を話し、社会を
形成することによって時間や個人の限界を超えた理性の力を発
揮することができるのである。「見よ、彼(人間)はわれわれ
(神々)の一人のようになった。」理性は神的な性質なのであ
る。
あとは「禁断の命の木の実」を取り込んで永遠の命を獲得す
れば、人間は神にますます近づいて(等しくなって?)しまう
のである。