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(回答先: 「戦前」をめぐる論議 投稿者 書記長 日時 2002 年 10 月 22 日 18:59:46)
書記長、こんばんわ。
>>日本が名誉ある自存した独立国家として存続するためには、
>>朝鮮半島を足掛かりにした大陸での権益確保が不可欠である
>>という認識のもとでの「富国強兵策」が一貫として採られて
>>いた。
> 明治初期以来の国際環境、特に東アジア情勢から言えば、植
>民地経営による権益の確保という側面よりも安全保障上の必要
>性の方がはるかに大きかったはず。
鶏が先か卵が先かという議論になると言うか、明治・大正・昭和の統治者たちは、安全保障(=名誉ある自存した独立国家)のためにも、販売市場であり資源の確保に資する大陸に権益を求める政策を実行しました。
書記長の言を借りるなら、安全保障上の必要性を満たすためには、植民地的形態であっても大陸で権益を確保しなければならないと考えたとも言えます。
日清戦争後日露戦争前の明治36年12月30日閣議では、「ロシアの脅威を朝鮮半島、日本海以北に阻止して日本の安全を確保し、台湾を立脚地として清国南部に日本の利益圏を扶植し、これが完成すれば、さらに南方群島に発展していく」という構想が国策として決定されています。
そして、日露戦争が日本優位で進むなか、明治38年10月27日の閣議で、「満州に関する事項に付清国と条約締結の件」として、「ロシアとの講和の結果として、満州の一部は日本の勢力範囲となり、これを維持・確立するための諸条件を清国に要求する」ことが決定されました。
日露戦争後の明治39年1月の帝国議会で西園寺首相は、「新たに満州に獲得した利権の実効を収め、韓国の保護を全うし、清国と親善を深め、戦勝の結果えた利益を維持拡大する」と施政方針演説で述べました。
安全保障と対外経済権益が一体であったということを否定しませんが、経済権益の拡大を主眼に大陸政策を推し進めたことは間違いありません。
>当時のロシア・ソ連は日本だけでなく世界中から恐れられてい
>たし、実際に危険な侵略者だった。
もっとも危険な侵略者は、英国(北米大陸における米国を含む)であり、フランスなどの西欧諸国であったというのが歴史的事実です。
アジア諸国にとって日本とロシアのどちらが危険な侵略者であったかは微妙なところです。
戦前とりわけ帝政ロシア時代の対露観が英国の対露観に引きずられていたことを看過することはできません。
中央アジア及びペルシアさらには中東・インドの権益をめぐって英露が衝突しかねない状況が続いていたので、英国は、東方の日本にロシアを牽制するよう誘導しました。
日露戦争は、英国を助ける代理戦争という色合いをもっていたのです。
英国はロシア内部の革命勢力を支援し、日本をロシアにぶつけることでそれを促進したのです。
日本で醸成されていったロシア脅威論は、そのような英国の働きかけによってもたされた部分が大きかったことを踏まえるべきです。
(米国がまき散らすかつてのソ連脅威論そして現在のイスラム脅威論や中国・北朝鮮脅威論にも通じるものです)
>>「大東亜共栄圏の思想」は、対米英蘭戦という国家総力持久
>>戦を遂行するための価値観基礎及び軍事占領した地域の支配
>>安定に資する理念と考えるほうが歴史的には妥当である。
> 目に見えない実際の動機まで問題にするのだったら何とでも
>言える。何を旗印として目に見える日本国民と世界に向けて掲
>げたかは政治的にはとても重要なのだ。
国策化される以前から民間で「大東亜共栄圏の思想」があり実践もされていたことは事実です。
しかし、国家としての日本が「大東亜共栄圏の思想」を掲げたのは、対米開戦の後なのです。
そして、対米戦以前に行われかつ進行していた満州での権益確保・中国での権益確保・朝鮮併合などは、「大東亜共栄圏思想」とは異なる大義名分で行われたものです。
第一次世界大戦に参戦し、ドイツが中国に持っていた権益を自分のものにしようとした「対支21ヶ条の要求」は、「大東亜共栄圏思想」とは相容れないものです。
> 私は英米流の民主・自由主義というのは英米人の間で上下を
>問わずかなり大まじめに信じられていると思っているが、それ
>は何よりも英米支配層(独占資本家・王侯貴族)の市民支配・
>世界征服・他国侵略の道具だと思っている。
そう思っています。
>とにかく大東亜宣言に見られるような「大東亜共栄圏」や「人
>種差別反対」、「アジアの開放」といった先進的な理念・スロー
>ガンを掲げて戦争をしたことには間違いない。
>そして、実際にあの軍事行動がアジアの開放に結びついたことは
>戦後の多くのアジアの指導者たちも認めている。また、多大な被
>害をだしたインパール作戦は、自分たちのアジア開放の理念を実
>行に移すために有志のインド人たちと一緒に行ったという面が確
>かにある。それは実際戦後のインド開放に大いに役立ったと言わ
>れている。
日本が明治期から「大東亜共栄圏思想」を基礎として国策を行っていたら、もっとスムーズに早くアジアの解放が達成できたかもしれません。
「大東亜戦争」が結果的にアジアの解放に資したとしても、日本がそれを主体的に担ったとは言えません。
インパール作戦は、大本営さえ無謀だと判断したとんでもなく誤った地獄のような軍事作戦です。
インドの独立に関してはガンジーなど国民会議派に光が当てられていますが、ご指摘のように日本と共同戦線を張ったインド国民軍(チャンドラ・ボース)の役割は大きなものがありました。
>>大陸の地べたを取ることに「近代経済システム」の利益はな
>>く、商品販売市場及び原材料調達市場の確保にこそ利益があ
>>るということを軽視した。
> 前から述べているように、第二次世界大戦前は世界大恐慌以
>来、世界は「ブロック経済」体制に入っていた。ブロック経済
>とは自国と植民地間の貿易以外の貿易には高率の関税障壁を設
>けることを言う。あの当時世界中はすでに欧米諸国による一応
>の世界分割は完了していて、植民地獲得競争のスタートがおく
>れた日独伊はこれといった植民地をもたなかったため経済的に
>追い詰められていったのである。他のブロックへ輸出すること
>が難しいことに加え、ブロック内部の売買が優先されるために
>そのブロックからの輸入も相手国側の関税や品不足から高くつ
>いたのかもしれない。少なくとも植民地保有国の経済的・政治
>的思惑によって容易に貿易制限や禁輸措置が行えたことは間違
>いない。つまり、当時は「自由貿易」もそれを行う「アジア諸
>国」も存在せず、原料調達市場の確保など自分の意志や通常の
>努力ではできなかったのである。実際に大戦直前の日本は欧米
>からの禁輸措置によって自動的に7ヶ月後には近代国家として
>は燃料切れで崩壊するところまで追い詰められていた。当時の
>東南アジア諸国はヨーロッパ諸国の領土だったのであって、日
>本は東南アジア諸国を侵略したわけではなく、ヨーロッパと戦
>いその領土を占領したのである。
意識的に論点をずらしているのかわかりませんが、私が言っているのは、朝鮮半島の国家を併合したり、中国の土地を奪うかたちの軍事作戦を厖大な国費をかけて行う必要はないということです。
軍事的防衛の責は負いながらも朝鮮の国家主権を認めることはでき、中国に対しても満州国の防衛と称して北支・中支に敵対的侵攻を行って泥沼にはまる必要はないということです。
英国やフランスは欧州情勢で手一杯なのですから、満州の防衛に徹し、中国に対しては独立国として尊重しながら商業取引を行うことはできました。
それが、「大東亜共栄圏思想」に基づく国策だと言えます。
当時の国際情勢を無視するわけではないので、朝鮮半島や中国を経済圏=ブロックとすることに反対しているわけでもありません。
あまり戦前国家統治者の肩を持つのもなんですが(笑)、第二次世界大戦が勃発し、フランスやオランダがドイツに降伏した後に、仏印(インドシナ)や蘭印(インドネシア)に治安維持を名目に進駐することも認めます。
私が言いいたいのは、日本は、掲げた大義名分とは違って、受け手側が英国・フランス・オランダの代わりが日本になっただけという思いを持つような支配を行ったということです。
>>国家としては、国防政策(軍事)と国策(外交)の分離、陸
>>軍と海軍の不統一、国際情勢の合理的な認識、産業力育成よ
>>り目先の軍備を優先、現地軍司令部への統御欠如、責任ある
>>判断の欠如、政・官・財の利益優先などをあげつらうことが
>>できる。
> 「国防政策(軍事)と国策(外交)の分離」など出来ない時
>代だったし、少なくとも主観的にはある程度「産業力育成より
>目先の軍備を優先」せざるを得なかったのだろう。
言葉足らずで申し訳ありませんが、国防政策(軍事)と国策(外交)が分離されていたことが問題なのです。
軍事と外交が不統一のまま対外政策が遂行されていったのが戦前の日本なのです。
「産業力育成より目先の軍備を優先」したのも、第一次世界大戦の兵器体系の変化を目の当たりにしてそういう自覚を持った軍高級官僚が少なからずいたのに、陸軍と海軍がこれまた分離していたために、戦後の官僚ではありませんが、組織のために軍事予算をなんとか増やそうとしたのです。
>戦争直前には日満ブロック経済により本格的な産業育成と国民経済の規模
>の拡大をしなくてはならないことは当時の経済指導にあたっていた軍人に
>も役人にもわかっていたのだが、開戦に間に合わなかったのである。
だからこそ、自らが仕掛けた対米戦は、国家を大災厄に陥れるとんでもなく誤った政策だと主張しています。
> だから、あっしらさんが具体的な当時の日本の問題点や失敗
>例をあげているのは、別に私の論への批判というわけではない
。
おっしゃられるように、書記長への批判というよりは、戦前の日本を統治していた人々への批判です。
> 私がそれを読んで思うのは、後になっていろいろ批判するの
>は楽だが、実際にことにあたってその都度決断を迫られた人々
>は厳しい条件と危険な状況の中で自分が国家の利益や理念に照
>らしてベストと思えることを選択していかなければならなかっ
>たのだろうなということである。あの当時は日本は今よりずっ
>とまともな国だったので、ただ経済的利益と身体の安全だけを
>基準に行動していたわけではなかったのである。
「ただ経済的利益と身体の安全だけを基準に行動していた」とは思っていません。
しかし、前回も書いたように、「国防政策は、彼我の国力の差から、米英との戦争は回避し、ロシア(ソ連)や中国そして仕掛けられた場合の米英との短期決戦を想定したものであったにも関わらず、対米英戦に自ら踏み出した日本(統治者)の無能無策は指弾して余りあるものがある」と考えています。
戦術批判ならともかく、勝算も講和条件(落としどころ)もないまま対米戦に踏み切ったことを批判するのは、“後知恵”というものではありません。
評価するところはきちんと評価し、批判すべきところはきちんと批判しなければ、明日に向けたまともな歩みも不可能になります。
対米戦が避けられないものであったとしても、米国に仕掛けさせて艦隊決戦を行って勝利し、早期に講和を結ぶというストーリーで行わなければならなかったのです。
(勝利できるということではなく、それ以外の選択は自らが立てた国防方針に違背するという意味です)
>>(10万英霊のことを考えたらここで引くわけにはいかない
>>と言って、300万の英霊を生み出す結果になる戦争継続を
>>正当化する精神構造は、合理性を失った倒錯としか言い様が
>>ない)
> それが、満州などと太平洋戦争の関係のことを指すのだとし
>たら、この理屈を採用する国家は国家の名に値しないと思われ
>る。というより、本来はこういう発想で国政を行うことは出来
>ないのである。
中国戦線の拡大から太平洋戦争の終結に至るまで、戦線の縮小や戦争の終結を阻んだ軍の主張は“英霊”を楯に取ったものです。
>国内の秩序と国際間での主権の確保、内外における国民の生命
>自由財産を守るためには、国家は金や命の犠牲をかえりみずに
>外の侵害者と戦わねばならないのであって、それは最初から
>国家というものの存在理由の重要な要素なのである。
このような論が正当性を持つのは、国民の皆殺しを意図して攻め入ってくる外敵に対してのみです。
戦っても死ぬ、戦わなくても死ぬという状況であれば、言われている内容が圧倒的な多数派の考えになると思います。
しかし、圧倒的な国力と軍事力を持つ国家を相手に対外権益の縮小や開放を拒んで、自国民の生命や財産を犠牲にすることも厭わないという国家統治者は、端的に言って無能のカスです。
統治者が無能でカスだったからこそ、300万人以上の犠牲者を出したあげく占領支配を受け、国民の価値観までぐちゃぐちゃにされる事態を迎え入れてしまったのです。
>>戦前は英国に見習い、戦後は米国に見習って、確固たる主体
>>的な価値観や論理もない無能な統治者が、日本をずたずたに
>>してきた。
>>戦前の日本を戦後の日本にぶつけるのではなく、ともに“近
>>代”の荒波のなかで右往左往しながら、国民及び諸外国国民
>>に犠牲を強いてきたという論理的な反省が必要だと思われる。
> ここでもあっしらさんは直接に私のあの論述に批判をぶつけ
>ているわけではない。ただ私個人は、戦前一番日本が見習った
>のはドイツであるように思えるし、「確固たる主体的な価値観
>や論理」を江戸時代以来の神道原理主義的な潮流として持って
>いたと思うし、「“近代”の荒波のなかで右往左往」していた
>のではなくて「試行錯誤しつつ近代に立ち向かっていた」とも
>言えると思うし、「無能な統治者が、日本をずたずたにしてき
>た」とはずいぶん傲慢な思考であり言葉だなと思うだけである。
> ある物事の価値判断は人によって色々でありうるのである。
国策の誤りは、人によって様々というわけにはいきません。
別に私の主張が絶対的なものだというわけではなく、「敗戦責任」を国家国民的課題として明確にしなければならないという主張です。
書記長が常々批判されている戦後日本の体たらくは、敗戦によってもたらされたものです。
そのような書記長が無能な統治者が引き起こした敗戦の責任を問わないことのほうが不可思議です。
バブル崩壊が問題でなくバブル形成が問題であると同じように、戦後日本は、戦前の統治者が踏み出した対米戦の敗北によってもたらされたものであり、対米戦を受けざるを得ないかたちで始めたわけではなく、自らが仕掛けるかたちで対米戦を始めた戦前の統治者の責任は重大なのです。