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東海アマブログ 名古屋の記憶 その1 2009年12月23日
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台風と火葬場
古い話だが、名古屋市中村区の、私の通った小学校の向かいに市営火葬場があって、当時、いつでも黒い煙を勢いよく上げていた。
火葬場から校舎まで、わずか100mほど。遺体を焼くイヤな臭いが、いつでもあたりに立ちこめ、弁当を食べる時間も容赦はなかった。どうにも我慢できない不快な生臭さは髪の燃える臭いだと聞いた。
火葬場の周囲には、死者の骨灰が堆く積もっていた。なぜか犬猫の死骸を捨てにくる人がいて、筵を剥がすと、そこに腐敗した無惨な遺骸があり、死の臭いに満ちた場所だった。
その小学校に入学して、まもなく伊勢湾台風がやってきた。一晩中、もの凄い風で、バリバリと物の壊れる音が絶え間なく、父母も近所の人も、真っ青な顔で窓を打ち付けたり、家に支柱を立てたりしていた。
夜中、「庄内川の堤防が切れそうだ、避難の支度をしろ」
と町内会役員がずぶぬれになって伝令に来た。父母は、子供達に手伝わせて、ありたけの荷物を二階にあげた。
まんじりともできないまま、恐ろしい夜が去り、朝が来た。外に出て、あたりを見渡すと、見慣れた風景はなく、まったく別世界だった。
あたり一面、見渡す限り泥の海、膝上までの浸水、塀はすべて吹き倒され、屋根瓦もなかった。辛うじて家は建っていたが、近所の建物で完全に壊れたものも多かった。水は半月以上も引かなかった。
わずか数百メートル離れた運河のある町内で、死者が出ていた。全体では五千名を超える死者、太平洋戦争以来の大惨事となった。
大人達は凄惨な状況に驚いていたが、それでも、諦め顔で黙々と復旧作業を行った。みんな悲しんでいたが誰も動揺していない。大人達は自然災害とは桁違い、未曾有の恐怖、戦争を経験して、まだ十数年しか経っていなかった。
戦時中、名古屋は三菱重工などで戦闘機を作っていた代表的な軍産都市であって、B29の絶え間のない猛爆に曝された。焼夷弾の雨や絨毯爆撃に逃げまどうことを思うなら大したことはないのだ。
学校が再開されたのは一月もしてからだった。校舎には家を失った大勢の避難民が生活していて、私たち子供は階段で授業を受けた。教室の窓には洗濯物がひらめいていた。
全国から支援物資が続々と到着した。みんな、わがことのように被災を心配し、なけなしの衣類や金を送ってくれた。人情の厚い時代だった。
でも、みな貧しく、衣類の行き渡らない男の子が、女物の衣類を着ていたりした。
その頃、向かいの火葬場の煙が凄まじいものになっていた。連日連夜、深夜でも真っ黒な煙が消えることはなかった。それも、とてつもなく臭い。魚の腐った臭い。遺体が腐乱していたからだ。子供でも臭いを我慢できず、弁当も食えなかった。
すでに時間がたち、腐乱した溺死体は黒く変色し、数倍に膨張していた。棺桶など、とうになく、「どんごろす」という袋に包まれていた。
学校帰り、決して近寄ってはいけないと先生に言われながら、仲間と近寄り、遺体の足を触って遊んでいた。先生は知っていても注意もしない。
逃げまどった凄まじい爆撃に比べれば、台風など、そよ風のようなものだ。死者数千は凄いが、太平洋戦争の死者は数百万だった。台風は一過性の悲劇にすぎないのだ。
赤線のこと
当時、名古屋の繁華街は、名古屋駅から栄町に向かう広小路通りだったが、もう一つ、私の住む中村区に大門という赤線地帯があり、広小路が昼間の、表の繁華街なら、大門は夜の、裏の繁華街だった。
赤線という名称は、すでになかったが、人々はまだ、そう呼んでいた。当時、遊郭はトルコ風呂と名前を変えていた。今ではソープランドになっている。確か、トルコから留学していた男性が、「トルコという名をやめよ」 と抗議したからとか記憶している。
大門には、夜な夜な、欲望を求めて全国から男達が集まってくる。1960年頃は絶頂期で、大変な数の人たちが大門を拠り所にして食べていた。
戦争未亡人は全国に数百万人もいた。みんな食べて行くのが大変だった。苛酷な生活の前に戦前の封建倫理観は崩壊し、体を売る仕事にでもありつけるだけでも幸福な時代だった。
容姿に自信のある若い女性だけが大門で働くことができた。トルコ風呂女子従業員というのは凄いエリートだった。収入も相当なもので、男、数十人分を稼ぐ女性も珍しくなかった。だから当時の未亡人女性達の憧れだったのだ。
誰でもが大門遊郭で仕事できるわけではない。容姿に自信がなかったり、歳をとりすぎていたりした女性も多かったから、そんな人たちの仕事も現れた。
戦後、大門と栄町を結ぶ4キロメートルほどの街路には、夕方になると無数の屋台が現れた。一畳ほどの小さな手押し屋台、カーバイドの灯り、沸々と煮えたぎる大鍋に煮込まれていたのは「ドテ」と呼ばれたホルモンだ。名古屋らしい赤味噌を甘く味付けした味だった。甘くしたのは保存性を良くし、煮汁をムダにしないためだった。
串カツも、このドテ汁につけて食べた。これが後に、味噌カツになった。煮汁で煮込んだウドンは味噌煮込みウドンになった。小さなイスが数脚、安い料金で辛い仕事を終えた男達が毎夜群がって飲み、食べた。
(*「味噌煮込みウドン」は、江戸時代から三河・伊勢の塩を牛に乗せて信州に運ぶ馬喰たちが、信州・甲州の「ほうとう」を携行食とし、味噌汁に入れて食べた習慣が発展し、「きしめん」や煮込みウドンなどに変わったと考えられるが、名古屋地方における味噌煮込みの普及は、こうした屋台からであった)
屋台の営業主は、ほとんど戦争未亡人だった。屋台を作って彼女たちに貸していたのは稲葉地一家や住吉連合会系のヤクザやテキヤだった。
毎日なにがしかの金を払って屋台を借りる。もちろん、それだけでは食えないから、本当の仕事は営業後にあった。屋台を片づけてから、客の男と寝ることで、食べていた女性が多かった。ちょっと年齢が上がりすぎたり、子供が多かったりした場合、トルコ風呂に勤めるのは難しく、こうして客を確保していたのだ。
数キロに及ぶ大門から栄町への屋台街道は、1964年、東京オリンピックを前にして、名古屋市当局によって強制的に壊滅させられた。
「国際都市、名古屋」の見栄えが悪い、ヤクザの巣窟とか理由をつけられて、無理矢理撤去させられた。いわゆる公娼地帯だったが、それを語る世間の口が、封建感覚の残る市当局幹部のお気に召さなかったに違いない。それで、大勢の女性達が仕事を失った。当局は、一切、彼女らの面倒を見なかった。みんな仲間内で助け合って苛酷な運命を凌がねばならなかった。
少しでも蓄えのある者は、自分で安い小さな店を借りて、小さな店を再開する者が多かった。こうした屋台が、名古屋のホルモン、ドテ文化を創り出し、今も続く一杯飲み屋、赤提灯などの礎となったのである。
名古屋市当局は都市計画について驚くほど傲慢で、強圧的なやり方で進め、常識外れの強引な行政手法だった。
戦後、小林橘川という市長が現れ、絨毯爆撃で持主所在不明となった土地を、戦争による混乱に乗じて、正規の法的手続きを無視して収容を重ね、強引に日本一広い道路を造った。おかげで市内全部がレース場のようになり、世界一の交通死亡事故多発都市となった。
よく考えて見れば、戦死者の複雑な相続権が、戦後、あれほどの短期間に整理がつくはずがない。あんな都市計画が見事に実現できるはずがない。それを、やった。
屋台撤去も、そうした同じ手法で、現在でも、ホームレス対策に同じ体質が見え隠れしている。万博を前に、都心部に住むホームレスを庇護施設に退去させたが、それは万博期間と、その後半年だけの庇護で、用が終わればホームレスを放りだし、何の手助けもしない。この寒さで、大勢のホームレスが凍死していても公表さえもしない。
伊勢湾台風で持ち主不明となった多くの土地も、民法を無視した異常な手続きで大企業に売却されていった。相続者公告も形式だけで、20年不明なら、どんどん市有地に繰り入れてしまい、片っ端から利権として利用したのである。
極めつけは、中村区新富町などの庄内川堤防付近のスラム街だった。屋台を強制撤去した頃、同じように不法占拠として堤防スラムの撤去を行ったのだが、これは20年にわたる居住実績、民法の占有権、居住権が大きな壁となっていたが、ある日、突然、スラム全部が燃える大火となり、たくさんの人が焼け死んだ。
この事件をきっかけに、焼失地をバリケードで固め、強制撤去へと結びつけた。この大火は、市当局と結託した暴力団による放火だったと言われている。不法占拠などが問題になった地区では、必ず、市当局に都合のよい事件が起きるのである。
ヤクザ
中村区は暴力団の街だった。それは東海地方最大の赤線地帯、大門の利権にヤクザが群がっていたからだ。束ねるのは、当時、稲葉地一家と呼ばれた地付きのヤクザだった。シルクハットを被った大親分がいた。まるで勝新浅吉親分の映画に出てくるみたいだった。
祖母が、近所に住んでいた大幹部宅に家事手伝いに入ったことがある。いつでも抜き身の日本刀が飾ってあり、税務署員など役人が訪ねてくると、庭で振り回していたそうだ。たいてい、それを見た役人は真っ青になって引き下がった。
祖母は、その親分を、とても親切で良い人だと語っていた。祖母も明治生まれ、90歳過ぎて、老人ケアセンターにボランティアに出るくらいの人だから、何事にも動ぜず根性の座った女で先方にも気に入られたようだ。
当時の娯楽と言えば、夜の赤線、未亡人の屋台、そして映画、パチンコ、キャバレー、すべてヤクザが絡んでいた。今の数倍のヤクザが街を徘徊していた。
当時の中村区では、もっとも大きな産業が大門の赤線地帯、次に国鉄、三菱重工など民間産業だったと思う。学校には、それらの子弟と農家の子弟が集まっていた。最大勢力が、赤線地帯の子供達だった。ヤクザと飲食店の子弟である。私は第二勢力、国鉄職員の子供だった。
小中学校とも、まだ戦後十数年、親たちは引き揚げや疎開帰還、戦争復員世代、戦地で苛酷に痛めつけられてきているから気の荒い者が多かった。教育の柱はゲンコツだった。何か失敗をしでかすと、ものも言わずにゲンコツが飛んできた。先生も同じだ。
でも、みんな死線を彷徨い、とてつもない苦労して生きて帰って来た人たちだ。本心はとても優しかった。どんな、ひどい失敗でも、ケンカをしても、最後は大目に見てくれた。「生きてくれてさえいれば いいんだよ」 と、その目が語っていた。
だが、子供達の世界は苛酷だった。ただでさえ歪んだヤクザ者の社会、その家庭のやり場のない鬱憤を抱えて子供達は学校にやってきた。学校は修羅場となる。イジメの嵐、暴力吹きすさぶクラス。
私は小中学校時代、毎日、学校に殴られに通ったという印象しか残っていない。楽しい思い出など、ほとんど記憶にない。だから卒業後、クラス会なども行った記憶がない。
中学生にもなれば、男子生徒は殴り倒され、女生徒は強姦される。教師が家庭指導に行けば、名うてのヤクザが若い者を引き連れて待ちかまえている。誰もが臭いものにフタ、見てみぬふりをするしかなかった。
国鉄子弟は、おとなしい者が多く、もっぱらやられ放題、だが成績の良い者が多かった。農家の子弟は、急速に都市化が進む地域で、畑を売って巨額の資金を手にし、今でも豪邸に住む者が多い。
一番苦しんでいたのは当のヤクザ子弟だったと思う。当時、一番虐められた思いでのあるYは、その後、何かの事件で無期懲役となった。生徒会長まで勤め、スポーツ万能だったO組長の息子は、後に二丁拳銃のOと異名をとり、ヤクザ社会でも一目置かれる存在だったが、覚醒剤に溺れ、飛び降り自殺した。
大門のヤクザも、時代とともに様変わりした。
最初、シルクハット率いる稲葉地一家の天下だったが、やがて全国組織、山口組の侵入が起きた。元々、山口組は三代目、田岡の時代まで、神戸港湾組合を中核に、全国の港湾荷役を支配する博徒だった。
名古屋港も、荷役元締めの大手海運会社は大部分山口組の傘下にあり、荷役会社の部長クラスともなれば、刺青を彫っていないと舐められて仕事にならないと言われた。
後に、私が、大型トラック運転手として笹島鉄道荷役や築地港湾荷役に関わった時代も、まだボウシン、荷役監督などは、みんな刺青が欠かせなかった。ヤクザ組織は、社会の中核をなしていたのである。
そうして荷役系ヤクザ、山口組がじわじわと縄張りを拡大し、弘田組、弘道会など、本部直系の大組織が大門に関わり始めると地元ヤクザとの間に抗争が頻発し、毎日のように大門や駅裏で血生臭い事件が続いた。
やがて地回りのヤクザ・テキヤは姿を消し、古くからある稲葉地一家系列の組も、すべて山口組傘下に加わることで延命をはかるようになった。今では稲葉地に本部のある弘道会が名古屋周辺のヤクザの主導権をとった。
それどころか、弘道会、司(篠田)会長は、2005年、山口組六代目会長に就任さえした。しかし、影響力甚大と見た警察に狙い撃ちされ、ボディガード拳銃所持で起訴され、6年服役となったのは、まだ最近のことだ。
私は1993年頃から、大門のつばめタクシー、中央交通に所属していたが、どのタクシー会社も、ヤクザ社会と密接な関係があることを思い知らされた。大門ヤクザの力は強大で、裏で折り合いをつけなければ商売にならなかったのである。
タクシーで弘道会幹部を迎えに行く。本部まで片道800円ほどの道程。彼は降りるとき、いつも千円札を投げてよこした。痩身、目つきの鋭さに圧倒された。私が迎えに行き始めた頃、組抗争の殺人犯として懲役15年の刑期を終えたばかりだと言った。
司会長も乗せたことがあるが、とても穏やかで紳士的な人物、チップもはずんでくれた。タクシーの運転手などと小馬鹿にした姿勢は見られない。贅肉のそぎ落ちた精悍な人相、素早い身のこなし、山口組組長ともなる人物は、やはりただ者ではない。
あれほど賑やかで、名古屋駅から大門に至る太閤通や駅裏銀座通は、雑踏で人が歩くのも困難だったほどなのに、いつのまにか秋風が忍び寄ってきた。大門の灯が薄くなりはじめたのは1980年代だったと思う。
景気高揚とともに、キャバレーやトルコ風呂に特化していた既製の業界の殻を破って、多様な風俗産業が台頭してきた。キャバクラ・イメクラ・ピンサロ・ヘルスなど、ヤクザによる支配を嫌って、風俗が既存の赤線地帯を飛び出した。名駅周辺や栄界隈で、新手の風俗が雨後のタケノコのように生え始め、やがて古い大門に閑古鳥が鳴くようになった。
私も、トラックの運転手をしていて配偶者に恵まれず、性欲処理に、そうした新しい風俗に通った。トルコ風呂はソープランドど改名したが、既存の管理体制に縛られて、すでに新鮮味を失い、若い娘達は自由の約束された新しい風俗で稼ぎ始めた。客は若い娘がいいに決まっている。大門に足を向ける客は激減した。
90年代、私が大門のタクシー会社で働いた頃、夜といえども、大門で客を拾うのは困難になっていた。立派な門構えのヤクザ事務所でも、若衆がヒマを持て余していた。
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