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(回答先: 東海アマ 名古屋の記憶 投稿者 中川隆 日時 2019 年 6 月 20 日 13:17:09)
東海アマ 立川の記憶
今日は体調不良で更新しないつもりだったが…… 2020年01月13日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-996.html
昨夜から体がひどく重く感じるようになり、トイレに行くため布団から立ち上がるのさえ、全身全霊の気力を用いなければならなくなった。
朝、無理矢理、いつもの散歩コースに出かけたが、うまくバランスが取れずに、体が左右に振られて困った。岩山だったなら転落して死んでしまう。
帰宅後、ずっと、こたつのなかで寝ていた。17時を見て、何でもいいから書こうと気力を奮い立たせたが、体が不調だと脳も低調なので、アイデアが浮かばない。
朝、何の気なしにガンマ線測定器のスイッチを入れたら、普段は平均0.2μ/hなのに、0.1しかない。これはガンマ線量の「爆縮現象」とJA7HOQ小林康晴さんが名付けた現象で、これが起きると、大地震が起きる可能性がある。
清瀬市のコスモスさんの定点観測では、爆縮が起きていないようなので、もう少し様子を見たい。
http://tokaiama.bbs.fc2.com/
ブログネタになりそうな記事を物色していたら、昔住んだ立川市のことが書かれていた。
翳りゆく東京 郊外最大級の「立川」に迫り来る厳しい現実
公開日:2020/01/13 日刊ゲンダイ
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/money/267482
東京都立川市は人口18万人、東京都下約400万人を抱える三多摩地区の中心都市です。東京都心から約30キロ、東京駅からもJR中央線の特別快速で40分の典型的なベッドタウンです。これまでに立川駅を電車で訪れて駅構内や駅ビルにごった返す人ごみに驚いたことがある人もいるでしょう。実際、JR立川駅の1日の乗降客数は16・8万人とJR東日本全管轄の駅の中で16位であり、なんと15位の有楽町駅(17・3万人)に迫る勢いです。また19位の中野駅(15万人)や20位(14・7万人)の恵比寿駅をはるかにしのいでいます。
この立川市は私が生まれた場所でもあり、(その後隣接の市に引っ越したものの)子供のころから何か特別な買い物をする時や映画を見るたびに訪れました。初めてお酒を飲んだのもやはりこの町の繁華街でした。昭和の立川は良くも悪くも実に猥雑で危険な香りがする街でした。昭和40年代には米軍基地があり、街には米国人があふれ、駅前には物乞いをする元傷痍軍人もいました。さらに立川競輪が開催される休日には、街全体が灰色に変色していくのが分かりました。
ところが、この街を訪れるたびにどうも以前の賑わいが失われていくように感じます。駅から5分も歩けば、途端に街並みが寂しくなっていきます。かつて駅周辺の商店街は、休日などは人酔いするほどの混雑でしたが、今では閑散とし、周辺のロードサイドに至っては、ファミリーレストランや車のディーラーが次々に閉店。代わってコンビニや老人福祉施設が目立ちます。
■押し寄せる少子高齢化の波
この光景は、私が全国各地で見てきた地方都市の商店街やロードサイドと何ら変わりません。つまり少子高齢化の波はこの東京郊外の代表的なベッドタウンにも確実に押し寄せてきているわけです。
かつて1980(昭和55)年の立川市において、65歳以上の老人の占める割合はたった6・6%でした。それが現在は24%に上昇しています。人口予想についても、立川市は2026年には減少に転じると公表しています。
現在は駅周辺も区画整理されて整然とした街並みになりました。駅前の百貨店も建て替わりましたが、どういうわけか勢いを感じません。少しずつ、けれど着実に若者が減っていくことで街から活気が失われているのです。
昨今、地元多摩地区の同級生たちと一杯やっていると「実家が空き家になり、どうしたらいいかな?」と相談されることが増えました。私の答えは「売るべし」の一言に尽きます。なぜなら、今後更に高齢化が進み、人口が減っていく中で、「買い」の需要は間違いなく減っていきます。なので自分たちが住まない限り、まだ物件に値段がつく間に売却した方が賢明ということになります。
旧友に「立川のように都心から近い街でこうだと地方都市は今後どうなってしまうのか」と聞かれることがありますが、推して知るべしでしょう。私は行きつけの立川のうまい酒場「ささやま」でただうなるのみです。
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引用以上
これを読んでいて、立川市というのは、東京23区に準じて都心の一部くらいに思っていたら、なんと、高齢化や過疎化が進んで、もはや都市としての将来性が失われているというようなことが書かれている。
私が住んでいたのは1970年前後だった。たぶん3.4年はいたと思う。あとは国立市や八王子市にもいた。
青春のまっただ中を立川で過ごしていたので、私の人生にとって、もっとも重要な場所である。
左翼高校生活動家だった私は、立川米軍基地と関わりたいと思ってやってきたのだ。
最初は、砂川町に向かった。ここは、米軍相手に農民が権利を戦い抜いた有名な砂川闘争の土地だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%82%E5%B7%9D%E9%97%98%E4%BA%89
ここには、左翼グループが、滑走路の先端の延長に「塹壕」を掘って、その中に暮らしていた。私も、ここに住むことにした。
砂川農民行動隊長の宮岡政雄さんや、たくさんの地元民とも懇意になった。
当時、1970年前後は、立川基地はバリバリの現役で、毎日たくさんの輸送機が発着していた。
https://biz-journal.jp/2019/03/post_27223.html
輸送機の荷物は、ベトナム戦争で死亡した米兵の遺体だった。立川基地内には、当時、極東最大の米軍病院があって、そこでは、ベトナムでバラバラになった兵士の遺体を修復して、米本国に送るという作業が行われていた。
あまりにもたくさんの遺体処理が行われていたので(ベトナム戦争における米兵死者は表向き5万人だっったが、軍属や秘密裏に投入された民間部隊の死者はカウントされていない)、処理が行き詰まり、米軍は、当時としては超高額の2万円という日当で、遺体修復バイトを募集していた。
これには悪い噂があって、バイトに行った人が、やがて発狂したと語られていた。私にも話が来たが、これを聞いて二の足を踏んだ。また、「幽霊が出た」との話も絶えなかった。
当時は、国際テロもなくて、米軍基地内の規律も緩く、基地内に米兵の友人がいれば、ツテで自由に基地内に入ることができた。
基地内にはPX(売店)があって、マリファナたばこが普通に売られていた。ドル札があれば、我々も買うことができた。
もしもベトナム派遣兵から麻薬を取り上げたなら、戦場で上官が後ろから撃たれるといわれていたので、こうした気分転換は必需品として米軍上層部も容認していたのだ。
ベトコンをまねて、赤旗をたくさん掲げていた砂川反戦塹壕には、当初、4トロと通称された学生組織が住んでいたが、ある日、隊長の里中さんが、基地内から狙撃を受けた。銃弾は里中さんの耳をかすめた。
以来、学生たちは撤退し、代わるように、当時民間活動家だった佐々勝仁や私などが住むようになったのだ。いずれ手榴弾が投げ込まれるのも時間の問題だった。
塹壕付近には、銃を持った米兵が、基地内から狙撃の構えをすることも珍しくなかった。
当時、砂川をめぐって、主立った闘争は終わっていたが、残った市民運動グループには、面白い人材がたくさんいた。
総会屋の下野純一郎、女性リーダーの加藤克子、この人たちは、みんな東大出だった。大山団地に住む映画監督の星紀一、それに今でも連絡のある野口女史とか、もう懐かしくてたまらないメンバーばかりだ。
私と言えば、勝手に「立川ベ平連」を名乗って、立川基地自衛隊進駐の反対闘争をやっていた。立川基地の正面ゲートに、「自衛隊移駐阻止」という看板を立てたのも私たちだ。デモで逮捕されたこともある。
もちろん本当の米兵救援にはかかわっていなかったが、マークされてCIAの工作員がしょっちゅう近づいてきて、ビールをおごってくれた。
当然、正体が見え透いていたから、その後は無縁だったが。
当時、立川駅前には、たくさんの米兵がたむろしていたが、日本人娼婦、それも70歳を超えたような女性もたくさんうろついていた。
ときには若い米兵がだまされて腕を組んでいると、他の米兵から冷やかされていた。
駅前の高島屋の裏には、行きつけの在日大衆食堂があって、私は、いつもモツライス定食しか頼まなかったから、入り口を入ると「モツライスの兄ちゃんが来た」と言われた。
立川に在日者が多かった理由は、たぶん曙町にあった競輪場と関係があったように思う。私は、競輪場の隣に住んでいたこともあった。
今では区画整理されたようで、まったく地理がわからなくなっている。
今、立川基地は、米軍返還後、一部が自衛隊基地に、多くが「昭和公園」という名前で民間に開放されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%96%B6%E6%98%AD%E5%92%8C%E8%A8%98%E5%BF%B5%E5%85%AC%E5%9C%92
私は、米軍基地以来、一度も足を踏み入れたことがないが、あの膨大な戦死者の霊たち(幽霊?)が、公園になったからといって去るとは思えず、たぶん私が跡地行けば、全身が硬直して、霊障害が起きるように思えるから、行く気がしないのだ。
さて、立川の今後だが、私は冒頭の記事にあるような衰退が起きるようには思えない。今の立川には、交通機関や公園などに十分な求心力があり、むしろ多摩の中核都市として、今後も発展するだろうと予想している。
都市にとって、何よりも大切なインフラ条件は交通機関なのだ。その意味で、立川市の鉄道路線は十分な厚みがあり、記事のなかで「売ってしまえ」と書かれているが、私なら「売るな」というだろう。
ついつい、懐かしさのあまり、とりとめのないことを書いてしまった。
なお、私が周辺の飲み屋で、気に入っているのは、国立駅北口の「うなちゃん」と、南口の「まっちゃん」である。
山口瞳がしょっちゅうきていて、面白い談義をしていたのが懐かしい。
私のいた当時、立川駅周辺で、ここという店はなかった。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-996.html
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