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元「中国人慰安婦」の“ウソ”と真実。遺族の証言はどこまで信じられるか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/483.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 6 月 18 日 20:25:15: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 従軍慰安婦問題で詐欺師 西岡力と櫻井よしこが流した悪質な嘘とデマ 投稿者 中川隆 日時 2019 年 1 月 03 日 08:04:05)

元「中国人慰安婦」の“ウソ”と真実。遺族の証言はどこまで信じられるか?
安田 峰俊 2018/10/16
https://bunshun.jp/articles/-/9338


過去に本サイトでも登場した中国・深圳のネトゲ廃人村や広州のアフリカ村への取材から、果ては大連のラブドール工場探訪記まで収録された、ルポライターの安田峰俊氏の著書

『さいはての中国』
https://www.amazon.co.jp/dp/4098253356?tag=bunshun_online-22&ie=UTF8


が好調だ。同書の後半部分では、南京やカナダ・トロントの対日歴史問題追及運動の当事者にも切り込み、彼らの実態に迫っている。

 今回は同書の第7章に登場する、南京の中国人元慰安婦遺族への取材部分を改稿して寄稿してもらった。日中両国の政治的意向と様々なプロパガンダの影に隠れた、虚実入り交じる証言の先にあるものとは――?


養母が“慰安婦”だった

 その家は中国江蘇省の農村の奥まった場所にあり、まことにみすぼらしかった。2015年末の江蘇省は底冷えがする。すでに日は落ちており、あたりはいっそう凄凄(せいせい)とした感じがあった。

 やがて、家の奥から黒い帽子にジャンパー姿の歯並びの悪い男性が姿をあらわした。唐家国、当時58歳。南京市郊外にある、湯山鎮湯家村で暮らす農民だ。体つきは小柄で痩身だが、健康的な痩せかたではなく実年齢よりもかなり老けて見えた。

 私はこのとき、小学館『SAPIO』の取材で南京市内に完成したばかり(当時)の慰安婦陳列館を訪れるため現地に来ており、事情をもっと深く知るために元慰安婦の「当事者」を名乗る人物やその関係者を探していた。

 結果、見つかったのが唐である。彼の養母・雷桂英(2007年4月逝去)は、若いころに日本軍の慰安婦だったとされる人物だ。当時、中国全土で元慰安婦を名乗る女性は20人足らずしか生存しておらず、南京市付近で会えるのは遺族である唐だけだった。


中国人「元慰安婦」を養母に持つ唐家国氏。2015年12月、湯山鎮の自宅にて撮影 
 


12歳で「慰安所」なる場所を紹介された

 唐によると、養母の「元慰安婦」雷桂英は1928年生まれ。彼女は7歳で父を失い、やがてよその家へ童養媳に出された(※童養媳とは、成長後にその家の男性の妻になるのを前提に、女児を他家に売る中国の旧習。貧しい家庭では一種の口減らしとしておこなわれる例が多かった)。

 童養媳は「嫁ぎ先」で虐待を受ける例も多く、桂英も似た境遇だったのだろう。彼女は12歳になった1940年に養家を飛び出し、やがて翌年の上半期に50歳くらいの女性から「慰安所」なる場所を紹介されて、「そこでは食っていける」と説明された。

養母が被った「抗日戦争の被害」とは

 ただしこの時点では、まだ幼いため慰安婦としての雇用ではなかったという。当時、桂英が直接被ったとされる「抗日戦争の被害」は以下のようなものだ。

「ある日本兵が(当時は子守り係だった)桂英に肉体関係を迫り、彼女が断ったところ、怒って太ももを刺した。桂英は助けてほしいと叫び、他の人がやってきたところ、刺した男は逃げた。慰安所の主の山本が(外出先から)戻ったあと、桂英がケガをしているのを見て病院へ連れて行った。ケガは1ヶ月ほどでよくなった」

 唐によると、当時の山本の慰安所には十数人の20代前半の女性が慰安婦として働いていた。1943年、慰安婦の数が足りず、15歳になった桂英もそちらの仕事をさせられた。「生前、桂英さんは日本人をどう言っていましたか?」とも聞いてみる。

「日本兵が人を殺すところを直接見たと言っていた。ただ、日本兵には民家に押し入った後で、家のなかに仏像や十字架があるのを見て家人を殺さずに引き上げた人もいた、と言っていた」

 標準中国語との通訳を介しているうえ、唐の話自体があまり論理的な感じではない。当方の質問の意図をしっかりくんで答えてくれているのか、ちょっと不安も覚える。しかも、この話は彼の養母が死の前年に語った内容の伝聞だ。それでも根気強く聞くよりほかはない。

カミングアウトしたのは死去の前、2006年だった

 桂英は1年半ほど慰安所で働いたが、1945年8月に「日本が敗戦したので、(地元の)湯山鎮に帰った」という。彼女は子どもが産めない身体になっており、戦後に養子を取った。

 その養子が唐である。桂英は死去の前年、唐に過去の体験を話し、周囲の勧めで南京市内にある侵華日軍南京大屠殺遭難同胞紀念館(南京大虐殺記念館)に自分の経歴を伝えた。


雷桂英の逝去を伝える2007年4月26日付『東方網』の報道
https://bunshun.jp/articles/-/9338?page=2

 結果、国営テレビ局のCCTVをはじめメディアが数社取材に来た。カナダにある中国人の歴史問題追及団体からは、カナダに来て証言してほしいという申し入れも来た。桂英はこれらに応えようとしていたが、カミングアウト翌年の2007年4月に亡くなった。唐によれば、一連の証言で金銭的な利益は得ていなかったという。

「平和のために歴史を鑑とし、未来に向かうことが重要です――」

 やがて、証言することがなくなった唐に、通訳を行っていた共産党員がそうした言葉を盛んに喋らせようとした。室内はなぜかストーブが焚かれておらず、ひどく寒かった。

「私たちの生活は向上しています。党と国家に感謝しています――」

 唐はそんな部屋で、何の表情もない目をしたまま、通訳の共産党員に促されるままに堅苦しいスローガンをボソボソとつぶやき続けていた。


9歳のとき、日本軍による強姦に遭った?

 いっぽう、私が後日に雷桂英について中国側の報道を調べたところ、2006年4月14日付けの新華社記事「南京77歳老人首次公開被迫当慰安婦経歴」を見つけることができた。新華社は中国の国営通信社で、内容は基本的に中国当局の公式見解だ。こちらでは、桂英の「抗日戦争の被害」は以下のようになっている。

<雷桂英老人は1929年生まれで、南京市区湯山鎮湯家村の人である。彼女が9歳のとき、不幸にして日本軍による強姦に遭い、13歳の年、彼女は騙されて当時の日本人が湯山鎮の高台坡に開いていた慰安所へゆくことになり、1年半にわたり強姦・折檻された後、ある日本人の不注意の機会を利用して脱走した>

<雷老人の紹介によると、当時の日本人の高台坡の慰安所には数10人の中国籍の慰安婦がおり、彼女はそのなかで最も年齢が低い1人だった。多くの17〜18歳の若い娘が日本の侵略者による代わるがわるの陵辱の後に出血多量となり生命を落とし、また(慰安婦の)何人かは直接的に日本軍によって残酷に殺害された>
http://news.sina.com.cn/c/2006-04-14/11258697181s.shtml

食い違う報道と証言

 一読しただけで、遺族の唐の話との食い違いが多い。例えば新華社記事では桂英は13歳から「騙されて」慰安婦にさせられたように読めるが、唐によれば彼女は当初は慰安所経営者の子守り係として雇用され、本人が慰安婦になったのは15歳からだ。

 また、新華社報道では桂英が慰安婦をやめた経緯について「日本人の不注意を利用して脱走」とするが、唐によると「日本の敗戦後に湯山鎮に帰った」とされる。なぜか桂英の出生年も、新華社の報道と遺族の唐の証言では1年ズレている。

 ほか、新華社が伝える「桂英は9歳で日本兵に強姦された」「ある慰安婦は代わるがわる陵辱されて出血多量で死亡した」「慰安婦の何人かは日本軍に直接殺害された」といった過激なエピソードは、唐からは聞かされていない話だ。


2015年に南京にできた慰安所陳列館にある慰安婦顔写真のオブジェ ©getty
https://bunshun.jp/articles/-/9338?page=3


足刺し事件の犯人は2人だった――さらに符合しない情報

 いっぽう、他の情報もある。2006年に中国人作家の方軍が生前の桂英にインタビューした際、彼女は方軍に足の傷を見せながら、その由来について以下のように話したとされる。

<13歳の年に、家に2人の日本人がやってきて、彼らは刀を抜きはらい私の顔の前でちらつかせ、一突きで殺してやると言いました。私は驚き呆然としました。彼は私の身体にのしかかり、私は力の限り彼を押し(返し)ました。あらがっているうちに二の腕をケガし、太腿の付け根を何度も刀で刺され、最後には強姦されました>
(「訪曾被日寇強擄為慰安婦的雷桂英老人」
『方軍 新浪博客』http://blog.sina.com.cn/s/blog_5ec5b67a0102whtj.html

 足刺し事件は慰安所ではなく自宅で起き、犯人は2人だという。また、強姦が未遂で終わって慰安所経営者の山本に病院へ連れて行ってもらったとする唐の証言とは違い、こちらでは最後まで強姦されたと話している。

 このインタビューで桂英は、はじめ慰安所の下働きだったが、数ヶ月で慰安婦にされたと語る。日本兵によって刀で頭を斬りつけられたことがあり、同僚の慰安婦が同様のケガで死亡したのを見た、慰安所で1年半働かされた後で機を見てトイレから脱走した――、ともいう。

 唐の話とも、新華社の記事とも符合しないことばかりだ。ちなみに方軍の取材では、桂英の生年は「1928年」になっている。


望まずして慰安婦になった記憶はあやふやになる

 遺族の証言、新華社報道、方軍による生前の桂英へのインタビュー……と、それぞれの情報源ごとに話はまったく食い違っている。「抗日戦争の被害」の実態はおろか、桂英の出生年や慰安婦になった年すらも定かではない始末だ。

――とはいえ、これらの矛盾は生前の桂英が意図的にウソを喋っていたことを意味するわけではない。一般論として、セックスワーカーには経済・文化資本の双方で社会的弱者が多く含まれるものであり、これは「旧中国」の生まれである元慰安婦ならなおさらだと考えられるからだ。


南京の慰安所陳列館の慰安婦像、後ろの壁に「涙」のアートが確認できる ©getty
https://bunshun.jp/articles/-/9338?page=4


 彼女らの多くはその生い立ちゆえに、論理的に首尾一貫した話をしたり、自分の状況を抽象的な概念で把握して他者に説明できるような能力を獲得できていない。文字の読み書きすらできないと考えれば、固有名詞や年号・日付・場所の記憶は、一定の初等教育を受けた一般人と比較するとかなり不正確になるはずだろう。

 加えて証言時の彼女らは高齢だ。往年の日々は誰しも忘れたい過去であり、望まずして慰安婦になった場合はなおさら記憶はあやふやになる。後世の抗日ドラマやニュース報道などで聞いた話を、自分の体験のように思い込む例もあるだろう。

言論の自由がない中国で証言の見極めは困難だ

 さらに本人が物故した場合は、話は遺族の伝聞になる。もちろん遺族たちも、やはり生い立ちは貧しく、充分な教育を受けられなかった人が多いため、証言の信頼性はいっそう低くなる。

 桂英について言えば、彼女が約80年間の非常に苦労の多い人生を送ったことや、戦時中に日本兵を相手にした性産業に従事していたことはおそらく事実だろう。ただ、それ以上のことは、なにひとつ確かではない。後世の検証もほとんど不可能に近いと言っていい。

 社会の格差が大きく、言論の自由も存在しない中国において元慰安婦の証言の内容を確かめることは、この問題の総本山である韓国の事例に輪をかけて真偽の見極めが困難なのだ。

当事者をウソツキ扱いして溜飲を下げることはできない

 詳しい話は『さいはての中国』本編に譲るが、中国の慰安婦問題には当局のその時点ごとの政治的な都合が大きく影響を及ぼしている(ほか、韓国や台湾の慰安婦問題との最大の違いとして、中国の場合は歴史問題の追及はおこなっても元慰安婦本人の尊厳に配慮する視点がかなり薄いという特徴もある)。

 こうした問題にどう向き合うべきかは、本書中でも言及したのでここでは繰り返さない。ただ、(当局や現地メディアについてはさておき)元慰安婦の当事者を完全にウソツキ扱いして溜飲を下げたり、逆に中国側の誇張された主張を大真面目に信じ込んだりするような、「雑」な姿勢で扱えるようなものでは到底ないことは確かに違いない。
 

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コメント
1. 中川隆[-13691] koaQ7Jey 2020年2月20日 10:36:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-223] 報告
差別されるセックスワーカーの悲哀を見てきた

タイは寛容な国として知られているのだが、この国には差別がないのか。
タイ人はとても柔軟で、誰でも受け入れる包容力があって、流れ者にはとても居心地が良い。あまりの優しさと包容力の深さに、抜け出せなくなるような安心感が社会にある。

しかし、このタイでも差別意識はある。私は売春に従事する膨大な女性に出会ってきたが、彼女たちはそのビジネス故に、そして貧しさ故にあまり良く思われていないのは、部外者である私も徐々に知るようになった。

タイは階層社会だ。上流階級と貧困階級はまったく違う世界に生きている。その中で夜の女というのは、最底辺のそのまた下のクラスに見られているというのは、一緒にいる私でさえも肌感覚で分かるようになった。

そしてタイは学歴社会でもある。学歴のある人間とない人間の差はあまりにも明確に線引きされており、学歴のない人間はどれだけ有能でも出世できないという社会でもある。

現在のシンガポールは多民族国家だが、それでは差別がなかったのだろうか。私はあるスリランカ女性が好きになって、彼女としばらく一緒にいたことがある。

(ブラックアジア:リーパ。ゲイランの街に立つ女の凶悪な目付きに惹かれた)
https://blackasia.net/?p=3262


ところが、私の泊まっていたホテルの中国系シンガポール人は、彼女のことを「ダーティー・ブラック・スキン」の女だと言って侮蔑した。「薄汚い黒い肌の女」だというのである。

そして、「そんな女をこのホテルに連れ込むな」と私に言い放った。客の私にそのようなことを言い放つのだから、その差別感情に私はショックを受けるしかなかった。

カンボジアではどうだったか。カンボジア人は昔から激しい差別感情をベトナム人に持っているのは有名な話だ。

そのカンボジアの売春地帯では、貧しいベトナム女性が大量に売られて売春していたのだが、それがまたベトナム人差別を増長させていた。

私が売春で生きているベトナム女性と一緒にプノンペンの街を歩いていたら、あるカンボジア人の老人が彼女にツバを吐きかけた。街を歩いているだけの女性に向かって、ツバを吐くという行為にその拒絶感の強さが窺い知れた。

理解? 配慮? そんなものはどこにもなかった

貧しいというのは差別につながる。売春ビジネスもまた差別につながる。だから貧しいセックスワーカーが置かれている立場というのは、どこの国でも激しい差別の渦の中にある。

バングラデシュでも貧しいセックスワーカーは激しい差別の中にあって、彼女たちが病気になっても医者は診察を拒絶し、彼女たちが死んでも葬儀屋は葬儀を拒み、共同墓地での埋葬すらも断られる。

スリランカで私が売春する貧しい女性と一緒に店に入ったら、私たちの目の前にいたテーブルのスリランカ人は彼女を見て途中で席を立って消えていった。

普通のスリランカ人が彼女を見る侮蔑の表情、そして一緒にいる私に対する嫌悪の表情はとても深い断絶に思えた。スリランカ社会が彼女を見る「冷たい目」はすべて真実である。恐ろしほどの冷たさであった。

彼女たちは、そういった拒絶感を朝から晩まで受けている。どこの国に行っても、私が好きになった夜の女たちの99%は社会から嫌われ差別されていた。
理解? 配慮? そんなものはどこにもなかった。ある時は陰湿に、ある時は露骨に、差別感情がそこに見出された。それが現実だ。

アジアの底辺で、社会から拒絶されながら生きている女性たちの姿を見て感じたのは、人間は「違い」に対する拒絶感をどうしても克服できないという冷徹な現実だったのである。

人は多様であり、人種も、人生も、考え方も、非常に大きな違いが存在する。その「違い」の中に対立や拒否感が生まれると、それが差別という感情になって育っていく。どうあがいても、人間はそこから逃れられない。

この「違いを排除する」という人間社会にある感情は、やがては深い対立を生み出すことになる。現代社会はこの感情を消す処方箋を持っていない。
https://blackasia.net/?p=17236

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