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メモ帳 _ キリスト教原理主義・イエスの本当の教え
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投稿者 中川隆 日時 2020 年 1 月 04 日 10:50:57: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

メモ帳 _ キリスト教原理主義・イエスの本当の教え


1投稿者:777  投稿日:2018年06月05日(火) 14時11分04秒
>イエスという人(男)は、口伝律法(後のタルムード)を批判して、殺された人だと思ってます。

これは既に否定されているよ。

ピラトがユダヤ教の司祭のイエス釈放依頼を無視してイエスを殺したが、キリスト教会がローマ帝国内で布教する為に、ユダヤ人群衆がイエスを殺させた様に書いたというのが最近の定説:


新説!キリストを殺したのは誰だ? - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=ofZR13y20as

それから、イエスの実父はフェニキア出身のローマ兵で、幼少時は私生児として迫害されていたから、イエスはユダヤの教えなんか興味無かったんだ
2投稿者:5  投稿日:2018年06月05日(火) 14時21分58秒
ヨゼフは私生児のイエスを引き取ったんだよ
だからイエスの弟は敬虔なユダヤ教徒だったけど、イエスは反ユダヤ教だよ
3投稿者:4  投稿日:2018年06月05日(火) 15時35分23秒
キリスト教とイエスの教えとは全然違うものだから
キリスト教徒にまともな人間は一人もいないよ
4投稿者:2  投稿日:2018年10月25日(木) 00時53分17秒

>ちな、おまいは福音書がイエスの死後50年もの間書かれなかった理由も
そして50年たったら慌てて書き始められた理解も分かってねえなあ


イエスの本当の教えを聞いていたのはユダとマグダラのマリアの二人だけだったから

12使徒はイエスの考えを纏めるだけの能力が無かったんだ。

それで、12使徒がイエスから聞いた断片的な言葉だけを口伝として Q文書、トマス福音書として残しただけだった。
その後、キリスト教会でQ文書とトマス福音書に収められたイエスの言葉を改竄・編集して
パウロの教えに合う様に新約聖書をでっち上げたんだ

それが新約聖書の完成が遅れた理由

勿論、イエスの本当の教えは新約聖書には書かれていない

403名無しさん@お腹いっぱい。2018/10/25(木) 00:52:29.31ID:P7+bOTvl

新約聖書のイエス受難劇もイエスとユダの二人が書いた原稿を流用したもの

キリストの死と復活はイエス自作自演の大芝居だったんだよ


新説!キリストを殺したのは誰だ? - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=ofZR13y20as
5投稿者:2  投稿日:2018年10月25日(木) 08時55分06秒
>グノーシス派もなにも、当時イエスの教えを誰も正しく理解なんかしていなかったんだから
意味がないの


マニ教とか当時の宗教はトマス福音書を正典にしていて、イエスを教祖として扱っていたよ
6投稿者:2  投稿日:2018年10月25日(木) 09時00分32秒
それから、イエスの教えは部派仏教と酷似している

イエスの修行法はインドのクンダリニ・ヨガだと言われている

イエスがヒステリー患者を治療した方法はバラモン教の医学と同じ

ペルシャではイエスは聖イッサと呼ばれて崇拝されていた

それで、若き日のイエスがインドで修行していたという話が出て来たんだ
7投稿者:2  投稿日:2018年10月25日(木) 12時32分09秒
釈迦もイエスも対機説法の達人で、真実は限られた弟子にしか教えなかったんだ

イエスから真実を聞かされたのはユダとマグダラのマリアの二人だけ

ペテロは完全なアホだと判断されて、ユダヤの間違った神を信仰していても放置されていた。

アホに真実を教えるとパニックになって何をするかわからないからね。  

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コメント
1. 中川隆[-14931] koaQ7Jey 2020年1月04日 10:52:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1933] 報告
神 [本/雑誌]
1投稿者:777  投稿日:2019年12月30日(月) 21時53分41秒
西尾幹二さんは誤解していますが、無数の永遠というのは無意識世界の話です。 現実の物理空間では勿論 時空も永遠も一つしかありません。
神というのは現実の物理空間ではなく無意識世界に存在するものですから、神も永遠も無数にあっても矛盾しないというだけです。

同じキリスト教の神でも、アフリカドジンが見る神は半裸だし、エスキモーが信仰する神は海獣の毛皮を着ているし、見る人によって神の姿も永遠も変わってくるのです。
2投稿者:2  投稿日:2019年12月30日(月) 22時03分13秒

西尾幹二さんは誤解していますが、無数の永遠というのは無意識世界の話です。 現実の物理空間には神は存在しないし、勿論 時空も永遠も一つしかありません。
神というのは現実の物理空間ではなく無意識世界に存在するものですから、神も永遠も無数にあっても矛盾しないというだけです。

同じキリスト教の神でも、アフリカドジンが見る神は半裸だし、エスキモーが信仰する神は海獣の毛皮を着ているし、見る人によって神の姿も永遠も変わってくるのです
3投稿者:2  投稿日:2019年12月30日(月) 23時12分30秒
日本の国体と日本人の信仰はイギリスの命令で明治天皇が完全に破壊し尽くした
廃仏毀釈について - 内田樹の研究室 2019-05-29
神仏分離・廃仏毀釈というのは不可解な歴史的事件である。すごく変な話なのである。歴史の教科書では「合理的な説明」がよくなされているが(水戸学が流行していた。明治政府が欧米列強に伍するためにキリスト教に対抗して国家神道を体系化するために行った。江戸時代の寺檀制度に増長した僧侶の堕落のせいで民心の仏教から離反していた・・・などなど)、どうも腑に落ちない。

 神仏習合というのはそれ以前にすでに1300年の伝統のあるほとんど土着した日本の宗教的伝統である。それを明治政府の発令した一篇の政令によって人々が軽々と捨てられたということがまず「変」である。この人たちにとって、千年を超える宗教的伝統というのはそんなに軽いものだったのか?

 神仏分離令の発令は慶應四年(1868年)である。「五畿七道諸国に布告」して、「往古ニ立帰リ」「普ク天下之諸神社、神主、禰宜、祝、神部ニ至迄、向後右神祇官附属ニ被仰渡候」という祭政一致の方針が示される。

 次に神社に対して「僧形ニテ別当或ハ社僧抔ト相唱ヘ候輩ハ復飾被仰出候」という命令が発された。社僧とは神社に勤める僧侶であり、別当は寺院と神社が一体化した神宮寺の責任者である僧のことである。この人たちに「復飾」(還俗)して、神職に奉仕するように命じたのである。

 驚くべきは、この命令に対して全国の社僧・別当たちが特段の抵抗もなく従ったということである。「長いものには巻かれろ」という処世術が宗教界に徹底していたのか、それとも「神と仏といい ただ水波の隔てにて」という血肉化した神仏習合マインドのせいで寺で読経しようと神社で祝詞を上げようと、同じことだということだったのか、私にはわからない。
 そのあと仏像をご神体としていた神社に対しては仏像仏具仏典の類を「早々ニ取除」くことを命じた神仏判別令が出された。
 それまで神宮寺の多くでは仏像をご神体に祀っていたのである。
 この「特段の抵抗もなく」というのが不思議なのである。
 ターゲットになったのは寺院だけではない。最初に発令されたのは六部、虚無僧、山伏、梓巫女、憑祈祷、狐下しなどの「前近代」的な遊行の宗教者の禁止だった。加持祈祷、オカルト、ノマド的宗教者が「まず」禁止された。そういう「前近代的な宗教のかたち」の徹底排除が近代国家の心理的基礎づけに必要だったと明治政府が判断したのである。

 だから、そのあと明治40年代になると、今度は神社合祀令が出て、「前近代的な神道」が排除されることになる。これについては南方熊楠がはげしい反対運動を展開したので、記憶されている人もいると思うけれど、全国20万社のうち7万社が廃されるというすさまじい「神社整理」であった。

 神道の国家統制を実施するためには、神社を公費で運営する必要がある。しかし、神社の数が多すぎて管理コストがカバーできない。だから小さい神社は(氏子たちがどれほど信仰していようと、どのような貴重な祭祀や芸能が伝えられていようと)、コスト削減のために統廃合するという政府の態度のうちに「神道に対する敬意」を見ることはむずかしいだろう。

 廃仏毀釈について腑に落ちないもう一つのことは、熱狂的な廃仏運動はかなり短期間で終息し、やがて寺院が再興され、人々が寺院に参詣するようになったということである。廃仏毀釈運動は慶應四年に始まり、明治三年にピークを迎え、明治九年にはほぼ収まった。なんで、そんなにあっさり終わってしまったのか。

 1300年続いた神仏習合という宗教的伝統をほとんど一夜にして弊履の如くに捨て去った熱狂が10年も続かなかった。この非対称性がよくわからない。それほどまでに仏教の檀家制度が憎く、僧侶の腐敗が許し難いものであったら、あるいは明治政府の宗教統制が厳格なものだったら、10年で廃仏運動が「収まる」わけがない。でも、あっさり終わってしまって、誰もその話をしなくなった。

羽黒山もかつては山伏が営む宿坊が300軒あり、それぞれの宿坊には「檀那」となる人々がいた。農閑期になるとその町村の人たちが「講」をつくって、連れ立って羽黒を訪れ、山伏の先達で三山で修験場を訪れ行をおこない、遊びながら故郷に帰った。羽黒に雪が降り山に登れなくなると、山伏たちは里に下りてその「檀家」を巡歴して、加持祈祷を行い、お札を売った。伊勢御師と同じである。

 あるときは定住する信者のもとを移動する宗教者が訪れ、あるときは定住する宗教者のもとを移動する信者が(聖地巡礼と観光旅行を兼ねて)訪れる。このような宗教と観光、行と娯楽の癒合したかたちは、前近代の日本に広く見られたようで、出雲大社、富士山、熊野などにも御師がいて、各地の檀那たちと密接な「師檀関係」を結んでいた。

 慶應四年の神仏分離令では山伏と御師がまっさきに弾圧の対象となった。羽黒山伏は宿坊が10分の1になったけれど、いまも残っているが、伊勢御師は明治初年に途絶えた。いったい、神仏分離令は何を圧殺しようとしたのかがここからよく知られる。

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