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本日、太田総理の番組で「体罰(ゲンコ)」は許した方が良いという議論があった。
結果的には7対15で否決されたのだが、正直言って「これ綺麗事じゃないの?」とKは感じた。
Kは悪ガキだったから、結構ひっぱかれた、マンガで引っぱたかれると、目から星がでたりするが、あれ、本当で、ひっぱたかれると目から火花のような出るような感覚になることがある。経験者でないと分からないことである。
KはKをひっぱたいてくれた親にも教師にも感謝こそしていても恨みなど持ってはいない。
Kは基本的に人に対して嫌いという感情を持たない方であるが、教員の中で1人だけ嫌った教師がいる「こいつは表面的にだけ綺麗事を整え、体罰もしなかったが、性根が腐っている」と幼いKには感じた。
何でも、出世して偉くなったようだが、あの教師が出世する教育制度はおかしいと思っている。
言葉なんて実に無力であり、言って分からない奴は「百編言っても分からない」とKは思うし、そもそも、体罰はいけないと言っているような者には、「その行為がなぜいけないのか?」をキチンと説明し、論理的に説得できる能力があるとも思えない。
なぜ、そう思うのかと言えば「暴力はいけない」という者は「暴力は悪だ」との憑き物に憑かれているだけで「なぜ、いけないか」について納得できる主張を聞いたことがなく、聞いた意見は「暴力に頼る者は前世代の遺物だ」とか「暴力を受けて育った者は他人にも暴力を振るう性格になる。」とか「言葉がある」というようなものだけだと認識している。
ひっぱたかれたこともない者が、ひっぱたかれた痛みを知らないから、平気で他人をひっぱたき、悪いことを注意しても「屁理屈で自己正当化をするだけ」なのである。
「盗人にも三分の理」ではないが、屁理屈などどこからでも湧いてくるものである。
そもそも、日本国憲法だって「公共の福祉」は「個人の自由」に優り、「犯罪というルール違反の場合苦役も仕方がない」と解釈できるはずだ。
自称人権主義者は、加害者の人権保護だけに目を向けるが、社会では「ルールを守る者の人権」が「ルールを守らない者の人権」に優先されるのでなければ「みんなが幸福に暮らせる社会」などできるわけがないだろうと思う。
最優先されるべきは「社会のルールを守って、普通に暮らす、大多数の善良たる社会の共同生活者」であって、「ルールを守らない者には罰があって当然」であろう。
そして、社会のルールを守らせるための方法論こそを考える時に、最初から「体罰」という方法論を「消してしまう」のは、それこそ愚か者の所業ではないか?
・・・と、こんなことを思ったわけであるが、その後、少し考えが変わった。
多分であるが、「自分が悪いことをして、体罰を受けるのは仕方がない」と納得する者ばかりなら、上記のKの主張で、あまり問題もないのだろうが、今の日本の人たちは、どの程度の比率で納得するだろうか?
あふれかえったバカどもは「自分が悪いことをした」ということにも気が付かず、暴力を振るわれたという気持ちしか持たない者も「比率として高い」のではないか?
例は不適切かもしれないが、「間男が逃げるとは限らない」と言うことであるが、やましいことをしていると「思っていれば」神妙になるのだろうが、水戸黄門の悪役は必ず襲いかかってくるのがお約束である。
あれ、「武器を持たなくても、時代劇史上天下一強いと思われるような助さん、角さんがいるから良いだけ」で、普通ならご老公が殺されておしまいである。
体罰を与えても反省もしなければ憎しみを持つだけの「くず」の比率によれば、一概に体罰を与えれば良いとも言い切れない。
で、多分、今の日本では「自称人権主義者の活躍」のおかげで、すでに体罰できる状況ではないくらい「くず」が増えているような気がする。
日本は終わっている。