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(回答先: 特に釣りをしているつもりはありませんが、レスには感謝しておきます。m(__)m 投稿者 考察者K 日時 2009 年 2 月 08 日 10:38:36)
ども、Kさん、お返事ありがとうございます。
レスを読ませて頂いて、はっきりと分かりましたよ。
Kさんの錯誤は、以下の部分に集約できると言えるでしょう。
>>体罰は決して奨励される行為でも、賞賛される行為でもない
>上記の考えで流れてきた社会は「自分の権利しか知らない人間の社会を育ててしまった」という
>「結果を考える必要がる。」と思います。
この因果の認識が「間違い」なんですよ。
極端に利己的な社会は、体罰の衰退が招いたものではありません。
社会の利己主義化傾向も、体罰の衰退傾向も、伝統的共同体の崩壊がもたらした結果です。
片方が原因で片方が結果じゃないんです。
伝統的共同体の崩壊は、人間関係を希薄にします。
そして人は摩擦を避けようとして、接触を避けるようになります。
すると当然「闘争」が激減し、衝突も減り、体罰なども衰退するわけです。
同時に、社会では相互依存の意識が薄れ「金さえあれば、他の人間なんか必要ない」という錯覚が蔓延します。
自分たちの生活に寄与してくれている他人(食料や衣料を作ってくれる人、便利な道具を作ってくれる人、それらを運んでくれる人、販売してくれる人etc,etc)の姿が見えなくなるのです。
そうなると、子供は敏感ですから、親や教師が何と言おうと「他人は蹴落とさねばならない競争相手であり、社会に出れば喰うか喰われるかのサバイバルが待ち受けている」と認識します。
「極端に利己的な社会では、自分がより以上に利己的でなければ生き残れないし、たとえ生き残れたとしても『負け組』入りに違いない。
綺麗事を言っていたんじゃ、自分がバカを見るだけ…大人たちは、口じゃ『友情、協調、連帯、正直、親切、真面目』などと唱えるが、実際の社会じゃ、そんなものは幻想さ。彼らだって、実はそんなもの信じちゃいないんだから…」
もし子供が、上記のような認識を口にしたら、今の大人はどう対処するでしょう?
「いいや、違うんだ」と断固否定することなど出来ないんじゃないでしょうか?
「うむ、その認識は正しい。正しいんだが…ゴニュゴニョ・・・」と誤摩化すしかありませんよね。
誰だって親であるなら、自分の子供が現代社会というサバイバルで敗退することを望みません。
であれば、サバイバルに於いてマイナスポイントである「人としての美徳」を、体罰に訴えてまで強要できるでしょうか?
強要するのは、学歴競争でライバルに遅れをとらないよう「しっかりテスト勉強しろ」と言うような、自己利益追求に適うものだけになります。
当然、そのように育てば社会性は身に付きませんよね。
でも、現代社会は社会性を身につけたメンバーを必要としないし、メンバー側も「そんなものを身につけたら破滅だ」と思っていますから、それはそれで社会も立ち行くわけです。ただし、どんどん歪みを大きくしながら…ですがね。
核家族化がとことんまで進み、ご近所は隣にどんな人が住んでいるのか分からないほど無関心、学校では生徒どうし、教師どうしがライバルで疑心暗鬼になり、企業では社員同士や正社員と派遣社員がサバイバルを繰り広げています。
経済は高度に分業化され、労働は商品となり、他人と接触することなく買い物ができる自動販売機や、人との接触を最小限で済ませられるスーパーマーケット、コンビニなどが「先進的商業システム」と崇められ、あらゆる伝統的共同体は「共生の必要性」を見失って崩壊しました。
そのような時代で子供に「ルールを守ることの大切さ」なんか、どうやって教えれば良いか分からないし、そもそも教える必要すらないのでは…というのが、親たちの本音ではないでしょうか?
せいぜい「警察沙汰だけは起こさないでね。お前が犯罪者になったら、パパ、会社をクビになって、お金が入らなくなるから」と懇願するのが関の山だと思います。
殺伐とした世の中では、殺伐とした子供しか育ちません。善良な子供に育てようと思えば、たちまち「落ちこぼれ」になってしまうでしょう。
そんな状況を子供への体罰で解決できると思いますか? 絶対に無理、いや確実に逆効果です。
利己的な子供たちの姿は、鏡に映った利己的な大人たちの姿です。
古き良き時代へのノスタルジーから、体罰だけを復活させても、古き良き時代は戻ってきません。
今、教育と社会に必要なものは、体罰による綺麗事の押し付けではなく、伝統的共同体の再生と、それに伴う共生意識の再構築でしょう。
それらが実現し、共同体内の人間関係が良好な連鎖で修復されたなら、大人のちょっとした暴力的指導や、ルールに組み込まれた限定的体罰など、そう深刻になるような問題ではなくなっていることでしょう。
体罰が良好な人間関係を作るのではなく、良好な人間関係が体罰の存在を限定的に容認するのです。
良好な人間関係が存在しないところに体罰を持ち込めば、社会はより分断化、細分化を加速します。
そして「分断化」は「ワガママ人間」を大量生産し、やがて社会全体を崩壊させます。今は、その一歩手前という状況ではないでしょうか。
それを踏まえ、Kさんはとても良いことをおっしゃいました。
>ワガママを暴走させたら国家につけ込まれるのです。
伝統的共同体が崩壊した現代に於ける「ルール」とは「支配の道具」であり「共生のための合意」じゃありません。
逆に言うと、共生の無いところに強権支配が蔓延るのです。
であれば、現在の「ルールを守ることの大切さ」は「支配されることの大切さ」に他なりません。
それを暴力に訴えてでも「教えなければならない」必要は、どこにあるのですか?
もっとも、この場合「教える」ではなく「強要する」と表現した方が良いのでしょうが…。
ワガママは当人にとっての「孤立」であり、社会にとっての「分断化」です。
「分断して支配せよ」と言う格言があるように、支配者は分断を画策し、共生を破壊するためにワガママを歓迎します。
支配の道具である形骸化したルールへの遵守を暴力的に強要しようという「体罰復活論」は、まさに支配者の望むところであり、それは刑罰の厳罰化や死刑制度の死守という、近年の政府政策に通ずるものでもあるでしょう。
支配者画策の産物であるワガママに手を焼き、強権介入や、てっとり早い暴力的解決を期待すれば、共生の再生はますます遠のき、「分断して支配せよ」の餌食となるだろうことを理解した上で、体罰問題を考えなければ危険であると思います。
他にも色々と指摘したいところは山積みなんですが、この部分が一番重要だと思いましたので、最初に取り上げました。
今日のところは、これで筆を置きますが、質問、反論等がありましたら、どんどんお寄せください。
なるべく速やかに返答させて頂くよう努力しますので…。
ではでは、お返事お待ちしております。