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この動画は1978年3月26日の成田空港管制塔占拠闘争の記録DVDの予告編です。 Wnidowsで見る場合はIE7で見ることをお勧めします。FireFoxの場合はなぜか画面が小さくなります。Macの場合はSafariでごらん下さい。FireFoxでは動画がハチャメチャになります。 この動画を見ると当時の実力闘争がいかに激しいものだったかが分かります。これだけの激しい実力闘争を行ないながら広範な社会的支援を受けていたことがWikipediaを読むと理解できます。それに記述内容が上手いというか引きつけるものがありましたので全文を引用しました。このDVDの中に出てくる「管制塔占拠のうた」を歌っているのは中山千夏さんだったりして当時の成田闘争の広がりを実感します。 Wikipediaをリンク込みで投稿記事に引用するのにはさすがに手間がかかりました。明日は会社なのでもう寝ます。 成田空港管制塔占拠事件出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』成田空港管制塔占拠事件(なりたくうこうかんせいとうせんきょじけん)- 成田空港反対派は「管制塔占拠闘争」あるいは「3.26闘争」と称している - とは、成田空港の開港を4日後に迎えた1978年3月26日に起きた、空港反対派農民を支援する新左翼党派によるゲリラおよび実力闘争を指す。この闘争によって、成田空港の開港は、2ヶ月遅れることになる。 事件の経緯1976年に福田赳夫内閣が成立、「内政の最重要課題として成田開港に取り組む」と表明し、1977年には、成田空港の年度内開港を打ち出した。 管制塔占拠「横堀要塞」が機動隊の精鋭部隊3000人を引き付け戦う中、午後1時、トラックを先頭にした突撃隊が第9ゲートから空港内へ突入を開始する。[7]午後1時5分、地下の赤ヘル部隊15人がマンホールから空港内道路に這い出した。直後、数人の警官が発見し「(空港構内から)出ろ!出ろ!」と拳銃を向ける。行動隊と警官が対峙する中、警官の後方では、第9ゲート部隊の空港突入に対処すべく機動隊の部隊が走り抜けていった。行動隊は意を決し、拳銃を向けた警官を突破し、追跡を振り切って管理棟敷地内に進入した。 直前、第9ゲート部隊のトラックによる火炎攻撃によって、管制塔玄関前は混乱していた。その隙をつき行動隊は管制塔への突入に成功する。行動隊5人が1Fで警官・機動隊を阻止する中、10人がエレベーターを乗り継ぎ階段を駆け上り14Fにたどり着いた。15Fへは鉄の扉で阻まれるが、6人が14Fのベランダから16Fの管制室に至った。こうして管制塔占拠は成功し、行動隊は、管制塔内のあらゆる通信機器を破壊した。管制官たちは、管制塔の屋上に避難したが、行動隊は「人質を取らない。民間人は空港関連に従事する者でも危害を加えない」という規律が課せられていた。結果として、危害を加えられた民間人は1人もいなかった。 行動隊の管制塔突入により、管理棟内にあった警備本部は算を乱して避難し警備側の指揮系統が混乱する中、迂回路を巡って第8ゲートにたどり着いたトラック先頭の300人の部隊も「管制塔占拠に合流せよ!」という指揮者の号令のもと空港の奥深くまで進撃。空港の各所で火炎瓶が飛び交い、態勢を整えた機動隊は拳銃の乱射をもって応戦する騒乱状態となった。 空港に突入した大部隊の多くは撤収に成功する。行動隊はまず管制塔1F組が機動隊に最後にはリンチ状態の末逮捕[8]、夕方になって、管制室の6人、14Fの4人も逮捕された。行動隊は、ロープでよじ登ってくる機動隊員を突き落とすことも可能だったが、三人の機動隊員が死亡した東峰十字路事件の教訓から[9]、「開港阻止が目的であって、機動隊員に対しても不必要な殺傷を行わない」という規律が課せられていた結果、よじ登ってくる機動隊員には攻撃を加えなかった[10]。管制室の行動隊員たちは、管制室に突入した機動隊員を前にスクラムを組み、革命歌『インターナショナル』を合唱しながら逮捕された。 最終的に逮捕者は、管制塔突入部隊、空港突入の大部隊、「横堀要塞」篭城部隊[11]、空港周辺各所のゲリラ部隊など合わせて計168名に及んだ。空港突入時にトラックに乗り合わせた山形大生・新山幸男は、警官隊の発砲した弾丸が積んでいたドラム缶に直撃した際に服に引火して転げ回っている最中にも機動隊員に盾で殴打され続け、全身火傷で2ヵ月後に死亡する(消火のためという説もある)[12]。 また、同時刻頃、三里塚第一公園では、15000人を結集して、三里塚・芝山連合空港反対同盟主催の集会が開催されていた。集会中に「管制塔占拠」の報を受けた参加者たちは、大歓声を上げた。そして、機動隊などのなんらの規制もないままにデモ行進に出発する。反対同盟の青年行動隊は、この集会に参加していた中核派などの新左翼党派に空港に突入するよう要請したが聞き入れられず、このデモ行進は平穏のうちに解散する。 余波内閣総理大臣(当時)福田赳夫はこの事態を「残念至極」と語り、3月28日閣議で開港の延期を決定する。政府は「この暴挙が単なる農民の反対運動とは異なる異質の法と秩序の破壊、民主主義体制への挑戦であり、徹底的検挙、取締りのため断固たる措置をとる」と声明を出し、「新東京国際空港の開港と安全確保対策要綱」[13]を制定した。この時限立法には、国会で青島幸男ただ一人が反対した。この管制塔の占拠に成功し、3月30日開港を文字通り「粉砕」した闘争について、革マル派は「福田を追い落とすために仕組まれた自民党内部の抗争を反映した警察の不作為の作為による陰謀事件」と機関紙『解放』で論評した。あるいは日本共産党は「政府・警察のトロツキスト泳がせ政策の結果であり、成田空港は"ハイジャック予備軍"に包囲された空港になってしまった」と政府を非難し、「団結小屋の全面撤去と"トロツキスト暴力集団"の徹底取締り」を要求した。共産党の機関紙『赤旗』では推理小説家小林久三が「ほとんど、なすがままに暴力集団の侵入を許した警察の動きはなんだったのか」と思わせぶりなコメントを寄せた。当時革マル派との「内ゲバ戦争」を優先して、「集団戦」ではなく主に空港施設へのゲリラを戦術にしていた中核派は、この管制塔占拠を当初は称賛するが、1980年代に入り三里塚闘争の方針をめぐって第四インターとの対立を深めると「"管制塔占拠"は機動隊に追われ逃げ込んだ先にたまたま管理棟があっただけの偶然の産物」と一転して否定的な評価を下すようになる。一方で、ソ連のタス通信は、この事件に関して「日本の全進歩勢力は、成田空港に反対している」と配信し、ソ連国営放送の報道でも空港反対派に肯定的なニュアンスで反対派と機動隊の衝突場面を何度も流した。イギリスの『ガーディアン』紙は「世界で最も血塗られた空港。こんな空港の開港を見届けたいと思っているのは福田内閣だけ」と日本政府を批判した。また、当時レバノンのPLOキャンプを取材していたジャーナリストの広河隆一は、「管制塔占拠」の報を聞いたパレスチナのゲリラ戦士たちが、歓喜の声とともに空に祝砲を撃ったことを目撃している[14]。また、2002年に日本の市民団体によって日本に招待されたフランスの酪農家で社会運動家のジョゼ・ボヴェは、成田空港に着くなり旧管制塔[15]を指差して「あそこが破壊されたニュースは覚えている。当時ラルザック[16]の仲間たちも大いに勇気付けられたものだ」と語った。反対同盟農民の多くは「自分たちだけでは出来なかったことをやってくれた」という思いだったという。条件派に転じた家族と訣別して一人で二期用地内に住んでいた婦人行動隊の染谷かつは、1971年の代執行で家を収用された大木よねの墓に「管制塔占拠」を報告し、「青年たちが命を差し出してえらいことをやってくれた。高いとこさ登った青年の心は百姓の心と変わらないよ。昭和の佐倉惣五郎だよ」と語ったという。3月26日から一週間の阻止闘争の予定が「管制塔占拠」によって現地闘争の必要がなくなった支援者たちは、駅頭で宣伝を兼ねてカンパを募ったところ、連日当時の金額で20万円以上のカンパが寄せられた。 この「管制塔占拠」を支持した文化人も少なくない。71年頃には三里塚現地闘争に駆けつけた経験もある漫画家赤塚不二夫は、1978年当時週刊文春で連載していた『ギャグゲリラ』において、成田闘争をモチーフにした作品を管制塔占拠事件の前後短期間に6本掲載している。
あるいは、「水牛楽団」などで活躍していた現代音楽のピアニストで作曲家の高橋悠治は、「管制塔占拠」をニュースでみて即興で『管制塔のうた』を作詞・作曲したという。この曲は、「関西三里塚闘争に連帯する会」が製作した「管制塔占拠闘争」の記録映画『大義の春』で使用され、映画中では中山千夏が歌っている(下記リンク参照)。 5月20日の「出直し開港」の日にも、「滑走路人民占拠」をスローガンにした「赤ヘル三派」を中心に空港周辺の各所で空港反対派が機動隊と衝突したが突入を果たせず、とうとう成田空港は開港した。反対同盟は「百日戦闘宣言」を発し、開港後もアドバルーンを上げたり、タイヤを燃やして、しばし航空ダイヤを乱すゲリラ活動を行った。 管制塔を占拠した十五人と計画立案した和多田、共産同戦旗派の首謀者と認定された佐藤一郎は起訴され、全体計画の首謀者に認定された和多田と行動隊リーダーの前田が航空危険罪などで十年以上の懲役をはじめ、全員が実刑判決を受ける。被告の一人である原勲は、1982年4月に長期拘禁からくるノイローゼの発作によって、釈放された数日後に自殺した。 また、1995年に確定した空港公団(当時)による損害賠償請求の執行が、時効直前の2005年に給与差し押さえなどの形で開始される。四千三百八十四万円に利息五千九百十六万円の計一億三百万円という請求額だった。元被告たちは、ふたたび結集し、支援者たちと7月から「一億円カンパ運動」を開始。インターネットを主な媒体にしてかつての活動家世代を中心に、11月までにのべ2千人から一億三百万円のカンパを集めきることに成功して、11月11日に法務省で完済した。[17] エピソード
前田道彦は当時26歳で、第四インターの花形活動家だった。16歳頃から街頭闘争に参加していた。空港反対同盟が協力し、学生インター(第四インターの青年組織・共産青年同盟の前身組織の一つ)が組織的にエキストラ出演した足尾銅山鉱毒事件と谷中村の闘いを描いた映画『襤褸の旗』(1974年 主演:三国連太郎、西田敏行)で、上京して窮状を訴えようとする農民を弾圧する警官役を演じた。1975年に第四インターが「ベトナム革命勝利連帯」を掲げて行った外務省突入占拠闘争でも一年服役している。
脚注
関連項目参考文献
外部リンク
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