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(回答先: 彼岸楼さん、ありがとうございます。 投稿者 ワヤクチャ 日時 2008 年 3 月 09 日 22:40:04)
ワヤクチャさん、ダイナモさん、早速のレスをありがとうございます。
私事ですが、これまでも低頻度の寄稿であったものがここ数ヶ月余り投稿回数が減りましたのは、身辺事情も関係がありますが、原因の七割以上は下記(抜粋引用)の松浦氏の言説が心に重く圧し掛かっていたためです。
http://www.asyura2.com/07/dispute26/msg/577.html 共感できる点が多々あります。 投稿者 松浦 日時 2007 年 10 月 17 日
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>現在までに形成された市民社会の弱点は、自らが社会現象となる事に甘んじている点です。世論を形成して、世論が社会を動かす?これは本当でしょうか。社会現象が、現実を動かす主体に果たしてなれますか。世界を支配しようと意図する者共が、例外無く姿を隠し、社会を外から操ろうとしている事と、自らを社会現象の一部と見なす市民の意識は対称的です。
>主体は、常に現象の外に在らねばなりません。
>言説を商品としてきた消費社会は終わります。消えるべきは、その売り手と買い手の両方です。生まれるべきは、特定の権力や誰かとではなく、人類史の構造と闘える強靭な知性です。
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取り分け『主体は、常に現象の外に在らねばなりません。』というセンテンスは強く私の心を鷲掴みにして放しませんでした。体制に抗った体験や、あるいは例えばマルクス主義が自己をも含んだ救済の思想だと気づくこともその端緒になり得るかも知れませんが、私達が主体的であるためには少なくともそのような歴史認識(基礎的体験もしくは基本的認識)が不可欠でしょう。 それを踏まえて尚且つ現象の外に立つことが自己の力量として可能かどうかを自問自答しなければならないと、このセンテンスは私達に問い掛けているようにも思えます。
生命誌とは生物の進化の歴史であると同時に生物の持つconatus「自己保存力(欲)」の軌跡(歴史)と云った側面を有します。現象(生命潮流)の只中にあるconatusの運動を如何に受けとめるべきか、外に立つ主体にとってのテーマはそんなところにあるのではないかと想っています。
そう謂えば、ワヤクチャさんも転載されていますが、上記に呼応するかのようにstixさんが下記(抜粋引用)のような投稿をされています。
http://www.asyura2.com/07/dispute27/msg/423.html 社会を超える倫理 投稿者 stix 日時 2008 年 2 月 10 日
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>真理に忠誠を誓う哲学者、自然を愛する先住民、正義の心を持つ義人達は、全て、権力の存在自体を許さず、命を賭して闘う道を選び、歴史の既成事実には服従しませんでした。古代から未来永劫に伝承される精神的遺産の全ては、そのような人格が生み出してきたものです。
>端的に表現すれば、権力と同化、同調、妥協する者は、時の審判には耐えられない、所詮は消えゆく者に過ぎないということです。
>したがって歴史的世界において人格の質は、究極的に権力との関係で表されることになります。知性、勇気、公平さ、誠実さ、大きさ、優しさ、愛、これら総ての真偽が計られるのです。
>特に卑しさと尊厳の違いは重要です。権力、資本、金銭と同化したプライドが如何に胡散臭いかは、深く理解しなければなりません。それは、卑しさの表現であって、決して、人の真の尊厳の在り方ではないのです。
>古代古典の時代から未来に至るまで、この法則は、不滅にして普遍です。
>人格の尺度は同様に、社会の質の尺度でもあります。
>健全な社会は、権力の制限と、権力からの自立を志向します。これは、民主主義以前の問題で、一政治制度を越えた人間精神と文化の健全性の問題です。
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力の小さな者達が力を合わせて創り出していくところに民主主義の真髄があると、昨年亡くなった小田実氏も喝破しています。創り出すべきものとは権力を授権するための授権規範であり、同時に主体の意思が反映されるべく権力を制御するための制限規範です。曲りなりにも日本人は外形的にはその権化たる“日本国憲法”を所持しています。あとはその運用過程にこそ市民としての矜持の在処があると考えます。
そして、これを敷衍することにより、人格や品格と云ったものは予め存在しているのではなく、社会を構成する人々の自主性の中で培われ獲得されていくものであると、stixさんの論旨を解することも可能でありましょう。
ところで、人類は脳の活動に伴なうエネルギーの派生物に依拠しながら生存して来ました。しかし、原初的な駆動力である慣性的エネルギーの発生原因は不明であり、その究極的な結果が如何なるかは定かではありません。すなわち、人類はある時点から脳機能の拡張化でそれを受けとめて来たものの、その行き着く先が不確定なことには今も変わりがないのです。
けれども、そんなことは他所に、脳化の進行は加速化の一途を辿っているように見えます。かかる情況から導かれる人類に託された課題は、その停止をも含んだ脳化の制御と謂えるのではないでしょうか。おそらくそれはエネルギー効率問題の探究と言い換えてもよいかも知れません。
“脳の暴走をくい止めること”とは“脳の振る舞いを制御すること”と同義であり、その延長線上には“人間が善道に導かれること”があり得るのではないかと希望的観測をしていますが、脳の暴走をコントロールすることが可能か否かは偏に人間の叡智に基づいたチャレンジに懸っていると思います。
Auf Wiedersehen