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(回答先: この闘争の当時は私はまだ第4インターのメンバーではありませんでした。 投稿者 ワヤクチャ 日時 2008 年 2 月 12 日 22:57:54)
私はこのとき既に脱退しており社会人でした。卒業と同時に止めると言ったときにリーダーから機関誌だけは購読を続けてくれと言われましたが結局購読しませんでした。卒業と同時に活動を止めたのですから本物の活動家ではなかったということです。 インターで活動していたときは様々なことを経験しました。情宣といって街頭でのビラ配りですが数えきれないくらいの回数、街頭に立ちました。ほとんどの人がビラを受け取ってくれました。何回も経験するとどのようにビラを差し出せば受け取ってくれるかコツが分かるようになりました。ビラ配りとともにカンパも募りました。当時の大きなテーマに日韓連帯闘争があり、朴正煕軍事独裁政権に政治犯として拘束された有名な詩人の金芝河らの釈放運動を街頭でアピールしていたとき、70代以上と思われるかなりの老人が1万円札をカンパしてくれたことが忘れられません。在日の人だったのかも知れません。 住民運動、労働運動の支援活動も数多く行ないました。企業を相手取った裁判の原告支援のために裁判の傍聴に何度も行ったこともありました。その当時の裁判の公判の間隔は約2ヶ月でした。反原発の闘争を行なっている反対派住民の支援活動を行なったこともあります。労働者の解雇撤回闘争に関わったことがありました。これらがいくつも同時並行して進行していくのでビラ作りやポスター張りなども含めて非常に忙しかったことを覚えています。大学では普段の情宣活動の他に大きな闘争があるときの立て看作り、自治会の選挙活動などもあり、自治会長選挙に立候補したこともあります。当時は民青が自治会を握っており勝つことはありませんでしたが、大学でのメンバーは5〜6人と少なく、いつもあちこちの闘争に飛び回り忙しかったのです。その他に他大学のメンバーとの交流会もありました。 たぶん私がいた頃のインターが最も勢力が大きかった頃だったと思います。既に死者も出ていた内ゲバを嫌ってインターに集まる人が多かったのでしょう。 三里塚では集会に何度も参加しましたが、援農と言って空港反対派農民の農作業の手伝いを泊まり込みで何回も行ないました。 当時は芝浦工大の自治会をインターが握っており、夏休みになると全国から町田の芝工大校舎に集まって宿泊し、闘争方針をめぐる全国大会を開いていました。 1975年の夏にベトナム解放闘争勝利に連帯して500〜600人を動員した外務省突入闘争がありました。当日はかなり暑く、しかも機動隊とのスクラムデモでの衝突の連続で闘争終了後は全員ヘトヘトでした。その時は数人が外務省内部に突入することができ闘争としては勝利でしたが、外務省前からの帰途、前を行くメンバーが買って飲むため、途中の自動販売機がみな空っぽでなかなか冷たい飲み物を口に入れることができず閉口しました。そんなとき最後尾にいた1人が袋を持ってメンバーが飲み干してブロック塀などに捨てた空き缶を黙々と回収している姿を見て、インターも気を使っているなと妙に感心したものです。 今から振り返ってみて、あの時にインターで活動したことが果たして自分にとって良かったのか悪かったのかどちらかは決めかねています。ただ、当時の経験は他では得られない貴重な経験だったと思っています。 |