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(回答先: 他立と干渉 投稿者 haru 日時 2008 年 1 月 23 日 00:30:16)
Haruさん、はじめまして。ご返信ありがとうございます。
>ざっとですが、ご投稿の文章を読ませていただきました。
私の投稿は、判りにくいかもしれませんので、雑談板の世迷い言として読み流してください。
いえいえ、夜を照らす言として拝読させていただきました。(笑)
>私が考えますに、現在の状況は、決して働かざるもの食うべからずでは成り立っていないのに、そうあるがごとくに装っていると思うのです。働かずに一定の恩恵を受¬けながら生を繋いでいる人々は数多く存在しております。例えば、資産家の家族、あるいは末端の庶民の中でも親戚縁者の庇護の中にある子供、青年等多数存在してい¬るものと思っています。
たしかに働かなくても食べていける人々は存在していますね。問題なのは、彼らがどのような状況の下で、そのような境遇にいるのかを掘り下げて調べることが必要だと思うのです。例えば、ファンドなどの資産運用の上がりがあるために賃労働を免れている人とリストラなどで失業した場合では、ある大きな隔たりがありますが、それを同一次元で論じることには無理がありましょう。
>ベーシックインカムということを考える時に大切にしたいと思うのは、他を重んじるという意図がそこにあるか否かです。それがないのであれば、ただ、通り一遍の偽¬善的優越思想に過ぎないのではないでしょうか?
私たちは他者の生産したものなどを消費して生活しているわけですが、つまり、他者と依存し合いながら、あるいは他者を手段として利用しながら、生活の糧を築いている現実が横たわっています。こうした現実を踏まえますと、いかにして他者を重んじる社会に近づけていくことができるのかが、現実の課題として重くのしかかってくるかと存じます。例えば、あるモノの所有権を得るために消費者は金銭を支払うわけで、この時、消費者がモノを購入しなければ資本は循環しません。つまり、資本家は資本蓄積(目的)のために、消費者にモノを買ってもらう(手段)という背景においては、仰っている意味での他者を重んじている意図は存在しないと思います。
>つまり、働くということや自立ということを目的とするのであれば、その視点はいつも強者の視点であるわけです。いわば、働いている自分を肯定した上でのそうでは¬ない他者を想定しているわけです。
働いている自分を肯定すること、働くことと自立を目的とすることが、どうして強者の視点になるのかが分らないのですが、『働いている自分を肯定した上でのそうでは¬ない他者を想定している』と書いていますので、推測するには、働いている者の自負心、プライドといったもののことを指して強者の視点とされたということでしょうか?
>自立という言葉を、社会から見た視点での使用だと感じましたが、本来ならこの世に生まれ落ちた時点で人は皆、自立しているようなもののだとも言えるような気もい¬たします。
そうですね。生がなんらかの活動を伴うのであれば、それを根底で支えるのがベーシック・インカムでの出発点だといえるでしょうね。
>ベーシックインカムを実現する為には、個人の所有物という資産を他へ解放する為の思想の転換が必要だと思います。子が親にする様に、あるいは、他を自己の延長と¬捉えられる様に。
気をつけたいと思うところだけ述べますと、ネーションのような大きな共同体の中での成員のみがその恩恵を受けることになり、その枠から外れたものに対しての配慮を欠かないかということです。