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http://www.tokyo-np.co.jp/feature/sakimori/news/070110.html
『文民統制』くみ取る制服組
防衛庁が「省」に格上げされた九日、東京都新宿区の防衛省。新憲法制定を訴えた作曲家、故黛敏郎氏の手による「冠譜及び祖国」を陸上自衛隊中央音楽隊が奏で、栄誉礼が始まった。安倍晋三首相(52)が、小銃をささげ持つ儀仗(ぎじょう)隊の前をゆっくり歩く。
「長官」から「大臣」になった久間章生防衛相(66)がメモリアルゾーンの慰霊碑に献花した。まつられているのは訓練中に亡くなった千七百七十七柱の自衛隊員。もちろん、戦死者は一人もいない。
同じ防衛省で、陸自のイラク派遣に際し、戦死者を弔うのに匹敵する儀式が計画されていた事実は明らかにされていない。隊員が戦闘死した場合の、国葬あるいは国葬に準じた葬儀である。
一九九二年のカンボジア派遣から始まった陸自の海外活動で死者は出ていない。だが、小泉純一郎前首相が国会で「殺されるかもしれないし、殺すかもしれない」と語ったイラク派遣は、危険度が違った。
二〇〇三年十二月、派遣を決めた閣議に前後して、陸上幕僚監部(陸幕)は戦闘死した隊員の処遇を極秘裏に検討した。政府を代表して官房長官がクウェートまで遺体を迎えに行き、政府専用機で帰国。葬儀は防衛庁を開放し、一般国民が弔意を表せるよう記帳所をつくるとの案が固まった。
当時、陸幕長だった防衛省顧問の先崎(まっさき)一氏(62)は「死者が出たら組織が動揺して収拾がつかなくなる。万一に備えて検討を始めたら、覚悟ができた。国が決めたイラク派遣。隊員の死には当然、国が責任を持つべきだと考えた」と語った。
「必要最小限の実力装置」(政府見解)として誕生した自衛隊は、日米安保共同宣言(一九九六年)、日米ガイドライン(九七年)、周辺事態法(九九年)と段階的に日米連携を強め、海外活動を指向した。
米軍支援の範囲が日本およびその周辺から世界へと広がったのは、米中枢同時テロを受けた〇一年のアフガニスタン攻撃からだ。海上自衛隊の艦艇六隻がインド洋に派遣され、続くイラク戦争では陸上自衛隊が中東へ送り込まれた。
性急な任務拡大は、政治家と制服組との関係をぎくしゃくさせた。イラク特措法成立後の〇三年秋、衆議院選挙でイラク派遣の争点化を避けたかった首相官邸は派遣時期を示さず、「防衛庁でやれることをやればいい」(当時の福田康夫官房長官)と突き放した。
〇四年一月、イラク南部のサマワに到着した陸自先遣隊のうち二人は正味一日の滞在で帰国、「派遣命令」につながる調査報告書を政府・与党に提出した。
元陸幕長の一人は、怒りを隠さずこう言った。「たった一日で書けるはずがない。日本で作成しておいた文書を持って出発したのだろう。命令される自衛隊に命令書をつくらせる。これがシビリアンコントロール(文民統制)と言えるのか」
どうなればイラク派遣は成功といえるのか、明確な指針を示さない官邸の意思をくみ取る作業を、先崎氏は「軍事による政治意思の実現」と表現した。
◇
制服組に支えられた「政軍一致」の方向性は、省昇格の裏に隠れて実現した自衛隊海外活動の本来任務化で、より鮮明になろうとしている。それは軍隊を認める憲法改定の呼び水になるのか。インド洋派遣、イラク派遣、そして新たな派遣に備える現場から、現代の防人(さきもり)・自衛隊の今と近未来を探る。
(この連載は、社会部・半田滋が担当します)
2007年1月10日
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