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(回答先: 「労働者にできること」は、「主義主張」を乗り越えて「団結すること」だけ 投稿者 そのまんま西 日時 2007 年 11 月 10 日 16:55:41)
>そのまんま西さん どうもです。
Kは思うのですが、既存の常識の延長線での手直し(パッチ当て)では限界なのだろうと思っています。
この問題は突き詰めれば「集団主義」か?「個人主義」か?という問題です。
例えば「内部告発」
これ、仕方によっては「企業を傾かせる」という結果を生みます。
仮にブラック企業であっても、一緒に働いていた同僚仲間の生活を考えたら、内部告発は思い留まるという結果を選択する事にもなるでしょう。
ですから「団結すること」(だけ)では何の解決にも近づかないと考えます。
「連合」という組織に加入する事は「連合という組織の中に飲み込まれる」事でもあるのです。
これ、渡世人がどこかの一家に入って、保護を受けると同時に一家に命を預けるという「ヤクザの任侠的考え方」でしょう。
先日、「既存の民主主義は限界に来ている」という意見を書きましたが、民意と国益の板挟みになって「何も出来ない国会」を見ても、つまらぬ「数の論理が先行している」だけで、前進できなくなっています。
今後の見通しだって、どうなるのか分かりませんが、仮に次期衆議院選挙で共産党を除く野党が過半数以下であったり、自公勢力が過半数になったら、その後の選挙まで「重要法案はほとんど可決できない」でしょう。
次期衆院選挙では自公が3分の2を獲得する事もないでしょうから、差し戻し法案の再可決もできない。のです。
この一点だけでも、日本の「既存のやり方」は限界に達しているのでしょう。
「連合」とかに代表される労働者の団結組織には「自らは何も生産しない」という「組織的な欠陥」があります。
その欠陥は「妥協と自己保身を生む」のです。
組織というのは「最終的には個々の加入者の保護より、組織の維持という自己保身を優先する」のでしょう。
その事が「個人で法的な手段に訴える」に劣る活動になる可能性を生むのですが、組織は組織を維持しようとするために「完全な反集団」にはなり得ないという致命的な欠点があるのです。
「個人はみんなのために、みんなは個人のために」
これは、個性が埋没した、みんなが平均的能力を有している場合の言葉であるのでしょう。
既存の社会制度を手直しするのは「限界」なのでしょう。
選挙制度から、全ての「社会のシステムを一から再構築する」のが必要な時が来たのでしょう。
コンピュータ的には、パッチ当てが限界に達すれば「一からシステムを作り直す」のは常道的な手段です。
「民主主義」も「労働運動」も「新しいシステムを創造する」と言う意識の改革が必要なのでしょう。
そのシステムの基本は「自己主張できる個人」となるのだろうと思っています。