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(回答先: 私は賛成しません。強制に反対することの持つ意味とは 投稿者 heart 日時 2007 年 1 月 08 日 15:18:24)
heartさん、ありがとうございます。
ご紹介いただいたリンクの書き込みも、よく読ませて頂きまして、
国旗・国歌に潜む危険性に対する危惧も共感いたしました。
国旗や国歌なんて、不要なんじゃないの?とすら思いました(笑)
ただ、heartさんは、「思想に関する強制」と「経済に関する強制」は、別問題とおっしゃいましたが、
わたしは、そうは思いません。
例えば、「俺は、仕事なんかせずに、毎日、酒だけ飲んで生きていきたいんだ」という”思想”の
持ち主が居て、「だから、仕事には行かない」という”行動”を取り続けた場合、
国家(私の概念では「共同体」といった方が適切かもしれない)が、「仕事に行くように」と
”強制”することは、わたしは認められると思う。
これは、「思想に関する強制」とも言えるのではないでしょうか?
ただ、国家が、「働きたくないという思想」を持つこと自体を禁止しているわけではないので、
「思想から起因する」「仕事に行かない」という”行動”を、やめさせる”強制”です。
これを、国旗・国歌に置き換えることは出来ないだろうか?
「わたしは、国旗や国歌は危険だし、不必要だと思う」という”思想”の持ち主が、
「式典で、不起立・不唱和」という”行動”を取り続けている。
「国旗や国歌は危険だし、不必要だ」という思想を持つこと自体は禁止しないが
「思想から起因する」「式典に協力しない」という”行動”を、やめさせる”強制”です。
そして、いずれも、それに従わなければ、「経済に関する強制」につながるわけです。
だから「思想」と「経済」は、切っても切り離せないものだと考えています。
わたしの「利子廃絶論」も「思想」であり、「経済」でもあるのです。
その上で、改めて、あらゆる国家による強制は反対なのか?を、お考えいただきたいと思います。
正しい国家が行なう、正しい強制は、”必要悪”であるという立場から、やっぱり
「国家による、いかなる強制にも反対」という運動には、少し違和感を覚えます。
「戦争は、格好いいから、なんとしてでも、やってみたい」
「戦争は、儲かるから、なんとしてでも、やりたい」などという、不埒な思想を持つものに、
国家が「そういう思想を持たないように」と強制することは、大いに賛成である(笑)