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(回答先: 国旗・国歌に潜む危険性については、勉強になりました。ありがとうございます。 投稿者 最大多数の最大幸福 日時 2007 年 1 月 08 日 17:54:44)
最大多数の最大幸福さん、レスが遅くなり申し訳ありませんでした。
ちょっとすぐには答えが思い浮かばなかったもので。
>ご紹介いただいたリンクの書き込みも、よく読ませて頂きまして、
>国旗・国歌に潜む危険性に対する危惧も共感いたしました。
>国旗や国歌なんて、不要なんじゃないの?とすら思いました(笑)
そこまでおわかりいただけて嬉しいです。
>ただ、heartさんは、「思想に関する強制」と「経済に関する強制」は、別問題とおっしゃいましたが、わたしは、そうは思いません。
>例えば、「俺は、仕事なんかせずに、毎日、酒だけ飲んで生きていきたいんだ」という”思想”の持ち主が居て、「だから、仕事には行かない」という”行動”を取り続けた場合、 国家(私の概念では「共同体」といった方が適切かもしれない)が、「仕事に行くように」と”強制”することは、わたしは認められると思う。
>これは、「思想に関する強制」とも言えるのではないでしょうか?
>ただ、国家が、「働きたくないという思想」を持つこと自体を禁止しているわけではないので、「思想から起因する」「仕事に行かない」という”行動”を、やめさせる”強制”です。
恐らくこの場合の国家(もしくは共同体)の行動は、余計なおせっかいなのではないでしょうか。
なぜ公権力を発動してまで働かせないといけないのでしょうか。
「仕事なんかせずに、毎日、酒だけ飲んで生きていきたいんだ」
という人は、そのうち野垂れ死にます。これは、最近嫌な言葉になってしまいましたが本来の意味での自己責任だと思います。
野垂れ死にたくなかったら、仕事をするでしょう。あるいは、生活保護を受けるかですね。ただ、「仕事なんかせずに、毎日、酒だけ飲んで生きていきたいんだ」というような人に、憲法25条で保障された「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を認めるのはちょっと過保護な気がしますね。もしこういう人が「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を主張したとしたら、権利の濫用じゃないかと言いたくなりそうです。
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憲法25条(生存権等)
@ すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
A 国は、国民生活のあらゆる側面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
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この種の「思想」は、「ワガママ」の部類に入る気がします。
しかし、そう感じるのも一つの思想であり、また、こういう人に働かせるべきと感じるのも一つの思想です。
働かないと野垂れ死にするからと働くよう強制するのは善意に発する行動かもしれませんが、それが善意だと誰が決めるのかという問題があります。
ある行為を善意と取る人もいれば、余計なお世話と取る人もいます。苦痛と感じる人もいるでしょう。
善意に基づく強制はいいとすると、何を基準に善意を決めるのかという問題が発生します。
そしてその基準を国家にはまかせられません。
「社会」とか「一般大衆」とか「多数派」にまかせることもできません。
ですから、やはり思想に関する強制全般を拒否する必要があると思います。
それから、この例は「経済に関する強制」とは言えないように思います。
仕事をするということは確かに経済活動ですが、個人に経済活動をしろと強制することと、例えば経済活動における枠組みを決めることとは別だと思います。
で、私は、経済活動における枠組みを決める、といったことについては、国家による経済に関する強制として、許容すべきだと考えています。これは、「企業活動の自由化」による労働者、個人の生活、環境への悪影響を抑えるためには政府の介入がある程度必要との観点からです。
つまり私は安全保障と治安維持だけでなく、福祉の提供という役割も国家には期待しています。
しかし、個人の思想の自由やその発露である表現の自由を、他の人の人権を侵害しているわけでもないのに弾圧してくるような国家は要らない、という立場です。国家による強制のうち思想の自由を侵してくるような強制については断固拒否します。
>これを、国旗・国歌に置き換えることは出来ないだろうか?
> 「わたしは、国旗や国歌は危険だし、不必要だと思う」という”思想”の持ち主が、「式典で、不起立・不唱和」という”行動”を取り続けている。
>「国旗や国歌は危険だし、不必要だ」という思想を持つこと自体は禁止しないが「思想から起因する」「式典に協力しない」という”行動”を、やめさせる”強制”です。
>そして、いずれも、それに従わなければ、「経済に関する強制」につながるわけです。
処分という形で「経済に関する強制につながる」ということですか?
>だから「思想」と「経済」は、切っても切り離せないものだと考えています。
>わたしの「利子廃絶論」も「思想」であり、「経済」でもあるのです。
>その上で、改めて、あらゆる国家による強制は反対なのか?を、お考えいただきたいと思います。
上で答えましたのでここではパスします。
>正しい国家が行なう、正しい強制は、”必要悪”であるという立場から、やっぱり「国家による、いかなる強制にも反対」という運動には、少し違和感を覚えます。
その「正しい」を誰が決めるかという問題があります。
正しいとか正しくないとかいうのはあくまでも主観です。自然科学でもない限り。
ですから、思想が関係してくることについては、「国家による、いかなる強制にも反対」という立場を私は取ります。
そういう運動をするかどうかは別にしても、そういう主張は展開します。
>「戦争は、格好いいから、なんとしてでも、やってみたい」
>「戦争は、儲かるから、なんとしてでも、やりたい」などという、不埒な思想を持つものに、国家が「そういう思想を持たないように」と強制することは、大いに賛成である(笑)
お気持ちはわかりますが(笑)、思想を持つこと自体は、禁止できません。
その思想のもとに戦争をやるとなったら、これは、表現の自由などとはいえなくなりますので(他人の身体を傷つけ、殺すという最悪の人権侵害ですから)、やめるよう強制することには正当性があるでしょうが。