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下の方で、ジャーナリズムが云々されているが、以下は、拙著、『電波メディアの神話』の一節である。
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「ジャーナリズム本来」は、そんなに立派な仕事か
「ジャーナリズム性善説」の基本構造は、以上のようにアメリカの歴史に発している。にもかかわらず日本に輸入される際には、歴史の発端がきえうせてしまった。日本では、あたかも人類史はじまって以来の神話のごとくに、「ジャーナリズム性善説」がまかりとおっている。これもあきれた話だ。
日本には、「ジャーナリズム本来」あるいは「本来のジャーナリズム」という「なにか」があって、その「本来」の姿からみると「日本のマスコミは腐敗している」という批判
をする人がおおい。こういう批判をする人々には、「ジャーナリズム」とは本来大変に立派な仕事なのだ、もしくはあるべきだという気負いがみられる。その気負いそのものは結構なのである。だが、そのためにかえってジャーナリズムの本質が、あいまいにされてきたのではないかというのが私の考えである。
そこでまず原点にたちかえって、「ジャーナリズム」の語源からたしかめてみよう。
情報活動は、なにもヨーロッパにはじまったわけではないが、これはことばの問題だからしかたがない。残念ながら「脱亜入欧」根性の日本でいまや国語として通用する「ジャーナリズム」の語根「ジャーナル」の語源は、ラテン語の「ディウルナ」(原意・ひごとの)であり、カエサル(英語読みはシーザー)がはじめたローマ共和国の日刊情報紙にさかのぼる。
紀元前五九年、カエサルは二種のてがき新聞を創刊し、ローマ政庁前の掲示板にはりださせた。一つは『アクタ・セナトゥス』(Acta Senatus 元老院の活動の意。アクタは転じて「日報、官報」をも意味)であり、もう一つは『アクタ・ディウルナ・ポプリ・ロマニ』(Acta Diurna Populi Romani ローマの人々の日々の活動の意。通称アクタ・ディウルナ。ディウルナも転じて「日刊新聞、官報」を意味)であった。ともに、文筆業の教育をうけた「奴隷」による筆写版がくばられた。遠征中の将軍にも騎兵がとどけた。将軍はさらに現地で筆写をさせて、前線兵士にまでローマの状況をつたえることができた。
「ディウルナ」の原意がしめすのは「日刊」のみであって、ことばそのものにイデオロギー的性格はなかった。実際上の機能をしいていえば、軍事的独裁権力をにぎっていた当時のカエサルに奉仕する「速報」の道具である。内容はまさに「官報」そのものだったから、「アクタ」にも「ディウルナ」にも、その意味がくわわったのである。
以上の事実経過からみるかぎり、起源があきらかではない「ジャーナリズム本来」などということばをつかって、民衆の側にたつのが「ジャーナリズム」の「本来」の社会的役割であるかのように論じるのは、かえって「ジャーナリズム」の歴史的な本質をみうしなわせることになる。たしかに民衆の側も「ジャーナリズム」という装置をわずかながらに、またはときには効果的にみずからの武器としてもちいるようになった。トマス・ペイン
のパンフレット、『コモン・センス』や『危機』シリーズ(終章で紹介)などは、その最も効果的な実例であろう。だが、歴史的に「本来」とはなにかとなれば、むしろその逆に、権力支配強化のための道具だった。また、ギリシャ・ローマ時代には、筆写だけでなく
哲学までが「奴隷」の仕事だったことをかんがえあわせれば、初期の「ジャーナリズム」の従事者の社会的地位は、決して高いものではなかった。
「ディウルナ」の創始者カエサルは、独裁権力をおそれる元老院議員らによって暗殺された。だが、かれが意図した遠距離コミュニケーション手段をもつに至ったローマ共和国は、さらに巨大な、あまたの異民族を支配下におく帝国へと発展したのである。
「メディア」(媒体)または「マスメディア」(大量媒体)についても、「マスコミ」マス・コミュニケーション、大量伝達機関)の語意についても、やはり、おなじことがい
える。基本は情報伝達の手段、道具であり、それ自体にはもともとイデオロギー的立場はない。このような「ジャーナリズム」の歴史と原理にてらしてかんがえるならば、「翼賛ジャーナリズム」などと論評される日本の大手メディアの現状こそが「ジャーナリズム本来」であり、歴史的な本質をむきだしにした「先祖返り」の正直な姿なのである。
「社会の木鐸(ぼくたく)」の方は、日本語というよりも中国語というべきであろうが、この起源も権力側の道具にあった。木鐸は木製の鈴のことで、役人が法令などをふれあるくときにならしたものだ。これに「社会の」という形容詞をつけて、民衆の側の警報を自称したわけだが、これなどは出自がはっきりしているだけに偽善をあばきやすい。
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