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(回答先: 「自分の認識」と「そのように自分が認識しているという思考の構造」を両方見るという事ですか? 投稿者 ワヤクチャ 日時 2005 年 3 月 26 日 23:29:54)
つまり、「私は全ての情報発信は立派であるかどうかという観点では評価できないと言いたいのです。」また、「全ての情報発信は自分の立場を確保する為のものだと言いたいのです。赤ん坊が母親にかまって欲しいから泣くというのと情報発信は同じです。人の為によかれと思って発信していたとしても同じです。それ自体が自己実現の行為だからです。」
私も、この立場です。
このことを意識しつづける必要が在る、というのが、ポスト・モダンの考え方の一つでしょう。フーコーも、精神分析や監獄など、多くの例示で、『見えない権力』『柔らかい権力』『インフォーマルな権力』を、批判し続けました。
でも、ポスト・モダンは、中途半端です。ドンドン、問題は提起し、世界を複雑に見ていくが、結局、分析に傾注しすぎる。
この部分を、ネオコンは、『構造分析』、その後、一気に、『構造改革』『変革の強要』『危険の未然防止』という手段で、克服しようとしているようです。
オールタナティブの考え方は、『構造分析』後に、異なる『具体的な構造を『提示』』しようという運動だと思いますが、現在の所、単に、分析に留まっているのではないでしょうか。ポスト・モダンから抜け切れていない。
ライス氏の立場は不明ですが、キリスト教右派と仮定して、やはり、ポスト・モダン的に、例えば、六カ国協議という「フレーム」に固執します。駒、次元が多いほど、自分の天才を活かせる、マトリックスが増えるので、やり易いのでしょう。連立方程式なので。
一つ一つ、応えなくて申し訳ありません。
自分の意見も言いたかったので。
補足として、「発言」という物理的(?)事実の「権力性」という問題の提起ではなかったようですが、もし、「発言」という物理的(?)事実の「権力性」という問題の提起でしたら、それは、時間が有限であったり、面談できない状況に在ったり、何等かの物理的な制約による優劣のためで、現在、議論しています、精神的な「フレーム」「構造」とは、少し、趣が異なると考えています。
但し、精神も物理的なものとの、相補的な関係にあるので、これも、同じように、考慮するべきである、との考えであれば、私も、同じです。
最後に、一番、言いたかったのは、御指摘の通り、「立派」とか、「立派でない」とかの判断からは、私も、遠く距離を置きたいし、現在の私にとって、何等の意味も無い、ことである、ということです。