現在地 HOME > カルト1 > 435.html ★阿修羅♪ |
|
(回答先: それはキリスト教の最大の矛盾点を象徴している 投稿者 アンチキリスト666 日時 2005 年 5 月 08 日 13:09:50)
>「唯一絶対の神の意志」と「ヨハネの目撃談?」のどちらが、キリスト教にとって重要であるのか?
まず「黙示録」は「ヨハネの目撃談?」ではありません。
ヨハネの黙示録第1章1〜3節から
黙1:1 イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。
黙1:2 ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした。
黙1:3 この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。
つまり、神から預かった言葉(預言)をそのまま伝えるものでどちらも重要です。
>日本語
> わたしはまた、別の天使が空高く飛ぶのを見た。この天使は、地上に住む人々、あらゆる国民、
>種族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の福音を携えて来て、(新共同訳)
>・・・・・・・・・・
>ここで言う「天使」は「言葉の違う民」達に対して、エスペラントを使ったとは描かれていない。
>描かれていない事を類推し、根拠とするのは聖書で禁じられている。
>・・・・・・・・・・
>エスペラント語は、永遠を福音を全ての民に伝えるのに相応しい言葉だと思います。
>・・・・・・・・・・
>どの様に相応しいのか?
>エスペラントを神が認めていない以上(明記されていない以上)、人間の都合で聖書の前提(基本ルール)を歪めるのが正しいキリスト者>だというのなら、それは、聖書を利用した唯の邪教に過ぎない。
神との契約は「禁止規定」と言われています。「〜をしてはならない」といった表現をとります。
神は「エスペラント語を禁ずる」と書いていません。書かれていない事は、神の義にかなうか否が
問われます。
>【異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。】マタイ伝10章5項
>これは、イエスが12人の弟子達に布教活動を命じたときのエピソードだ。
>イエスが「外国人へ福音を宣べ伝えるな!布教するな!」と言っている。
マタイによる福音書第10章5〜7節
5 イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。
また、サマリア人の町に入ってはならない。
6 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。
7 行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。
ここでイエスは、「外国人へ福音を宣べ伝えるな!布教するな!」と禁止しているのではありません。
6節の「むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」に力点が置かれています。
エスペラント語は、民族間の言語的平等を目指して作られた人工言語です。キリストは、福音による全人類
の救済を説いています。この福音に経済的、政治的、文化的に支配的な影響を持たない中立の言語である
エスペラント語が貢献できると考えています。
以上です。