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落合信彦がフランスの外人部隊で訓練を受けたと本に書いたので、冒険と荒稼ぎを狙うバカな日本の若者が外人部隊に志願したと言われている。だが、落合がでっち上げで如何にインチキなことを書きまくったかについては、鹿砦社から奥菜秀次が出した「落合信彦・最後の真実」や「捏造ジャーナリスト・落合信彦」の中に、徹底的に暴露したレポートがあって唖然とさせられる。そんな時にイラクで戦争の下請けをしていた元自衛隊の佐藤昭彦の重傷と誘拐の記事が発表になり、佐藤が外人部隊に入っていたベテランの殺し屋であったことが明らかになった。落合と小泉はこういう無法者を世界に送り出した点で同罪であるが、日本人はこういうことを放置している日本の政治を恥ずかしいと感じる必要がある。
仏外国人部隊の実像
英国系警備会社に勤め、イラクで武装勢力に拘束されたとみられる斎藤昭彦さん(44)は、自衛隊を経てフランス外国人部隊に二十一年勤務したエキスパート軍人だった。この部隊は映画や小説の題材にも取り上げられ、各国兵士たちの“あこがれの的”という。斎藤さんから面接を受け入隊した部隊OBらが語る精鋭たちの実像とは。
■『シェフ・サイトー』
「温厚な表情に、時折にじむ厳しさ。曹長だったので、みんな斎藤さんのことを『シェフ』『シェフ・サイトー』と呼んでいた」
一九九九年五月から一年間、仏外国人部隊に所属した神戸市の会社員(34)はそう振り返る。
この会社員はもともと警察官志望だった。関西大学商学部に入学し、空手を学ぶうちに「極限まで体を鍛えたい」との気持ちが強くなり、二年生で学生の身分を隠し陸上自衛隊に入隊。しかし授業のため一月余りで除隊し、卒業後に再入隊。このとき仲間内で見たビデオで初めて仏外国人部隊を知った。
「国際舞台での活躍に、気絶するまでの訓練。自衛隊には絶対ない厳しさにあこがれた」。九八年九月にはパリの街に立っていた。
外国人部隊司令部のあるフランス南部の町オバーニュ。「入隊試験で面接の試験官だった斎藤さんは、身上、犯歴調査が担当だった。最も精鋭のコルシカ島のパラシュート部隊にいたが、自分でキャリアをひけらかすようなことはなかった。ただ『もう十年以上いるよ。長くなった』と言う程度」としながら「斎藤さんは『部隊に入っても、君の求めているようなものは何もない。今のうちにやめておいた方がいい』と一生懸命に言っていた。当時は、心を試すための言葉だと受け止めていたが、今思えば、本心で言ってくれていたのかも」と心中は複雑だ。
数十キロの荷を背負う何日もの行軍や射撃訓練。足をまめで血だらけにしなが歩き、フランス人と生活しながら語学を学んだ。
やがて正式に入隊が認められ外国人部隊の象徴とされる「ケピ・ブラン(白い帽子)」や制服を授与された。訓練仲間にはロシアや東欧、中国、アフリカ諸国、フランス人。韓国軍の精鋭部隊から転身してきた者もいた。日本人の姿もあちこちで見かけた。九一年に始まった湾岸戦争時は約六十人いたという。
配属は港町マルセイユの北、オランジュにある偵察部隊だった。「敵が攻めてくるのをいち早く見つけ、隠れて待ち伏せ攻撃する訓練をしていた。月給は約十万円。宿舎で過ごし、衣類や食事はすべて与えられた。自分としては十分な額だった」と待遇を評価する。また「とにかく制服に汚れやしわ一つないようにアイロンがけの作法も徹底的に仕込まれた。おしゃれの国フランスを痛感した」
その上で、部隊を辞めたいきさつについてこう明かした。「本当は早く実戦に出たかった。五年ごとの契約だが、当時は、『サラエボへ行くかも』とか『レバノンかも』とか取りざたされることはあっても、ちっとも出撃しなかった。そのうち不満を募らせた何人もが夜のうちにいなくなった。自分も外国人部隊に合格したことで達成感もあったため、ある夜、フェンスを乗り越え脱走したのです」
■植民地拡大と治安維持担う
外国人部隊は一九三〇年代のフランス映画「外人部隊」やハリウッド映画「モロッコ」など数々の映画でも取り上げられ、映画ファンにもおなじみだが、その起源はいつからか。
「フランス外人部隊」の著書がある軍事ジャーナリストの柘植久慶氏によると、外国人部隊が創設されたのは、ブルボン王朝のルイ・フィリップ一世治世下の一八三一年だという。
柘植氏は「フィリップ一世が取り組んだ北アフリカ・アルジェリアの植民地化の際、フランス軍の戦死者を多く出したのが創設のきっかけ。これ以上戦死者を出すと、国内の戦意が保てないということと、ナポレオン時代の仏軍遠征に従軍していたイタリアやドイツなどの外国人の兵士がナポレオン没落後もパリに滞在しており、この兵士らを国外で働かせる失業対策の意味合いもあった」と解説する。
ジャーナリストの恵谷治氏も「フランスは革命後、世界で初めて徴兵制を導入し、国民軍を定着させたが、弊害として戦争で多数の国民が死ぬたびに、国民の不満が蓄積されたため、戦争は雇い兵にやらせるべきだという声が外国人部隊を誕生させた。植民地の拡大と治安維持が当初の任務だった」と指摘する。
仏外国人部隊のピークは、第二次世界大戦後のインドシナ戦争当時の六万人といわれるが、現在は約八千人で部隊員数は大幅に減少した。
柘植氏は「一九六二年のアルジェリア独立の際、当時のドゴール大統領が独立を認めたのに対し、現地のフランス系を中心とした住民が起こした反乱に外国人部隊が共闘した。部隊の解体論があったが、一万人以下の規模ながら存続することになった」と説明する。
さらに「外国人部隊は雇い兵ではなく正規軍。イラクで拘束された斎藤さんも恩給をもらっていた」と指摘する。
そのうえで、二十一年も務めた斎藤さんが、英国系民間警備会社に移った事情についてこう推測する。
「部隊の定年は五十歳ぐらい。斎藤さんも恩給が少し増える程度で、将来への不安もあったと思う。給料は国内に駐在している時は曹長クラスでも年収三百六十万円程度。民間警備会社ならば、その三倍にはなるため心が動いたのでは」
自衛隊を経て仏外国人部隊に転身した斎藤さんのように“戦場”を求める日本の若者は多いのか。
前述の会社員と同様に一九九〇年から静岡・御殿場の陸上自衛隊普通科(歩兵)連隊に所属し仏外国人部隊に約一年間所属した千葉市の飲食店従業員(31)は「専守防衛で訓練ばかりしている若者にとって、実戦という言葉は正直言って魅力がある」としながら「入隊試験に日本語版もあり、日本人の応募の多さを実感したが、入隊して二十四時間拘束されたり理想と現実は違う。南米・ギアナ高地の基地に配属予定だったが直前で除隊を申し出、受理された」といきさつを語る。
さらにイラクへ向かった斎藤さんについては「現地手当は一日六万円とされるが、都内の飲食店では十万円稼ぐことだってたやすい。お金以外の何かがあって行っていたのでは」とおもんぱかる。
入隊時に面接を受けた会社員は斎藤さんへの思いをこう漏らした。
「軍人として覚悟の仕事。日本政府に助けてもらおうとか、こんな形で騒がれることは望んでいないだろう。自分としては、何とか生きて帰ってきてほしい。そしてもう一度、話がしたい」
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