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かわもと文庫
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憲法9条と積極的平和の創造
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絶対平和の理念に貫かれた我が国の憲法と巨大化した軍備(自衛隊)の埋めがたい乖離をどう解決していくか、この難問中の難問を考えていくうえでまず必要な作業は、そもそも"平和"とは何なのか、どんな状態なのかをしっかりと捉えておかねばならないことだろう。
では、平和とはどんな状態なのだろうか。
59年前に、思想・言論の統制や生活物資の欠乏で人間らしさや自分と家族の命を保つことすら困難ななか、やがて米軍の激しい無差別爆撃の下を逃げ惑い、つぎつぎに家族友人の死に出会い、焼け跡にゴロゴロ転がる黒焦げの死体を見、生きて明日を迎えることすら確信をもって考えることのできなくなっていたこの国の人々にとって、平和とは、単純明快に戦争のない状態であった。
実際、日本が無条件降伏をした8月15日、天皇信仰に骨の髄までからめとられていた人々の中には、皇居前広場で号泣して天皇に敗戦を謝罪したり、なかには割腹自殺を図った人まで出たが、大多数の人々の偽らざる心境は、ああ、戦争は終わったか、これで今夜から部屋に電灯をともすことができる、もう爆撃の下を逃げ惑わなくてもいい、もう死ななくてもいいのだという、心底からの平和の実感だったろう。
8月15日を体験した人々にとっては、戦争のない状態こそがまさに平和であった。
こうした戦争体験世代の強烈な厭戦感情と、それと表裏の関係にある平和への激しい思いが、絶対平和の理念に貫かれた現行憲法を成立させ、今日まで憲法改正を許さずにきたエネルギーのみなもととなってきた。
その後今日に至るまで、さいわいにも日本は直接的な戦争や大規模な軍事紛争に巻き込まれることなく過ごしてこられた。戦争のない状態が平和だとしたら、われわれはこの59年間、平和の中で心安んじて暮らしを営んでこられたし、今も心安んじた暮らしを営むことができている、といえるだろう。
だが、われわれは今、平和を実感して日々を過ごしているだろうか。
何の前提条件もなしに、現在の日本が充分に平和な社会だと言い切れる人は非常に少ないだろう。
世界有数の軍備をもち、スーパー軍事大国・米国と緊密な外交関係と軍事同盟を結び、近い将来日本に軍事侵略を企てる無謀な他国など現実に想定できないなかにあって、なぜわれわれは充分な平和を実感できないのだろうか。
こう考えてくると、平和とは、戦争がない状態だけを意味するものではないことが見えてくる。
戦争や軍事紛争に苦しんでいる人々にとっては、戦争のない状態は何にも優先して実現したいことだろう。だが戦争のない状態が平和だとしたら、北朝鮮やミャンマー(ビルマ)の人々は平和を享受できていると言えるのだろうか。戦争のない状態が平和だという捉え方は、平和を限定的に、静的に捉えたものだといえる。
もちろん、戦争のない世界の実現を人々は望み、追求してきた。戦争がないことこそがまず、人々が安心して日々を過ごすための基礎的な条件だといえるだろう。
だが、戦争や軍事紛争に巻き込まれていなくても、基本的人権を保障されず、思想信条や言論の自由がなく、保安警察の監視にびくびくし、弾圧や差別にさらされ、明日の平穏な暮しすら夢見ることができないとき、人々は平和を実感できない。たしかに戦争はないけれども、それは平和でもない状態、つまり非平和な状態にすぎない。
平和とは単に戦争がないだけの状態ではなく、もっと多角的にこうした非平和の状態が解消された、積極的な状態であり、そうした積極的な平和の構成要素には、豊かさ、安全、正義、公平、自由、平等、民主主義、人権尊重などがあるという考え方がある。戦争のない状態が平和だという考え方を"消極的平和"というのに対して、こうした"非平和"を解消して実現される平和を"積極的平和"といい、近年、国連などでもこの概念が取り入れられてきたそうだ。
この"積極的平和"の概念は、そのときどきの社会の状況、各人の思想や置かれた立場によってそれぞれ異なる、相対的なものになってこざるをえない。そこで、絶対平和の理念に貫かれた日本国憲法と巨大な軍備の乖離を考えるこの小論では、平和の定義を私なりに、市民の低い視点から、「人々の命と暮らしが安全に保障される社会状況」と仮にしておこう。私にとっての平和とは、断じて国家や国土の安全などではなく、人々の命と暮らしの安全だ。
そしてさらに言えば、ここでいう「人々」とは、もちろん「日本人」だけではない。そうした国境や民族によって区切られる集団ではなく、世界すべての、戦争に巻き込まれる人、何もしなければ人権の侵害や飢えに巻き込まれかねない立場の人の総称だ。
ソ連をはじめとする社会主義体制の崩壊によって、それまで冷戦構造の重石に押さえつけられてきた民族主義が一挙に噴き出し、各地でパンドラの箱を開いたような政治状況が続出してきた。政治的・経済的・人的なネットワークの構築が進み、国家や地域の相互依存・互恵関係が密になった結果、国家対国家の伝統的な大規模戦争が起きる可能性は小さくなったが、かわって民族主義の勃興や経済のグローバル化に起因する軍事紛争が世界の各地で多発してきた。
こうした状況に巻き込まれた地域の人々にとっては、とりあえず戦争や軍事紛争のない状況、つまり消極的平和こそが当面望むものとなるだろう。一日も早く、人が人を殺し合う状況を終わらせ、和平が実現してほしい。
しかしどのような(積極的)平和を実現するかというもっとも基本的な点において、人々が圧制と経済搾取に苦しむ平和なき和平を押し付けられる形での軍事解決であれば、やがてふたたび和平は軍事紛争へと引き戻されていく。つまり、和平は軍事紛争の双方が武器を置くことで達成できても、和平を永続させる平和の実現は、武器を置いただけではできない。武器とは無関係の、公正な政治的・経済的ルールや、相互信頼関係の構築に向けた努力なしには、積極的平和に向けての関係者の動きは始まらない。
こうした和平の永続化、積極的平和の実現に、軍備(武器)はほとんどの場合無力であるか、阻害要因になる。むしろこうした積極的平和の実現を遠ざけ、相互不信と憎悪を増殖させることは、パレスチナ問題、イラク問題が如実に物語っている。
経済のグローバル化によって、米国をはじめとする欧米先進国の巨大企業が国境を越えて営利活動を展開することがあたりまえのようになってきたが、これは多くの場合、進出する側である強者が、進出される側である弱者に強者のルールを強制し、弱者の富を不公正なルールで奪う経済搾取をますます進行させた。こうしたことを実現させるために、進出する側は対象国の権力と手を組み、開発独裁を手助けしてもきた。
進出され、搾取され、貧困と圧制に苦しむ人々には、先進大国の、巨大企業の、こうした不公正は、日々の暮らしの困窮と人間性の否定の形で痛いほど知覚できている。力による統治でこうした圧制と搾取を続ければ、それは地中深いマグマとなっていつの日か圧力を増し、重石が軽くなった場所を突破口に暴力的に噴出する。あるいはひとびとの我慢の限界を越えたとき、成算を期待しない悲劇的な形で暴力化する。
イスラエルで起きているパレスチナ人による自爆攻撃も、米国の9・11事件も、ロシアの社会を不安のどん底に陥れている一連のテロも、悲劇的な暴力の噴出を生み出す土壌を深く見据えないかぎり、解決できない。米ソの指導者は、テロに対する徹底的な攻撃を声高に唱え、我が国の指導者もそれに同調しているが、武力による対テロ作戦は、せいぜいのところ、起きてしまったテロの弾圧や起きかけたテロの予防に力を見せても、テロの根絶には無力か、事態をますます悲劇的に悪化させる。
最前線のテロリストを武器で殺戮しても、テロを生み出す土壌を放置するかぎり、つぎつぎとテロリストは育ち、新たな行動を起こしてくる。こうしたテロの連鎖を断ち切る政治・社会・経済的な環境の改革、つまり積極的平和の創造は、武力とは異なる手段でなければ不可能だ。
交通と情報の発達によって、厄介なことに、テロは容易に拡散し、膨張するようになった。暴力の震源地とは地理的に遠く離れたニューヨークで、モスクワで、テロ活動が行なわれたことがこれをよく物語っている。日本が米国に同調してイラクに軍隊を派兵したことによって、日本がテロの標的になるのではないかと多くの日本人が不安を覚えていることも、人々がテロの拡散・膨張を現実のことと心配していることを物語っている。そしてこの不安が現実化しないとは今や誰にも言えない。
つまりテロを生み出す状況が地理的・政治的に遠く離れていることが、自分たちの社会がテロと無縁であることを保証しなくなった。さまざまな地域でテロが噴出している政治状況の中では、たとえ震源地が遠く離れていても、われわれの社会が暴力と一見無縁であっても、他国の、他地域の、テロを生み出す土壌の解消にわれわれも積極的に関与していかないかぎり、テロの火花はわれわれに飛び火してくるかもしれない。世界が小さくなっている現在、こうした努力なしに、われわれ自身の積極的平和は実現できなくなっている。
北朝鮮やミャンマーのような軍事独裁国家の存在も、その国の人々にとっては積極的平和実現の巨大な圧壁である。軍事独裁政権は、自己の存続のために平然と自国民を殺す。このような政治体制の下で生きる人々は、人間であることを否定され、体制が保証すべき最低限の食糧さえも手に入れることができなくなる。脱北者が続出する北朝鮮だけの話ではない。59年前の日本でも、同じようなことが起き、軍の倉庫に食糧は積み上げられていても、人々は不充分な配給制度の下で栄養失調に苦しみ、配給以外の手段で食糧を入手できない人の中には餓死する者も出た。
こうした国家は安定を失い、いつ破綻するかもしれなくなる。破綻しないまでも、独裁政権は自国民の政治体制への不満を逸らすために、国外、特に近隣諸国に敵をつくり、自国民が不幸なのは敵である近隣国家のせいだと国民を教唆し、その教唆にそむくものを過酷に弾圧する。そうした結果、その国の国民の憎しみは体制が指差す近隣国の国家と国民に向けられる。権力に教唆されたその憎しみは、いつ近隣国家に向けた成算なき軍事紛争やテロの形で立ちあらわれるかもしれない。今この国の人たちが感じている漠然とした不安は、北朝鮮に対するそうした不安感だろう。かつての日本も、今の北朝鮮の国家体制と価値観に非常によく似た状況で真珠湾攻撃を行ない、無謀な太平洋戦争に突き進んでいった。
こうした近隣国家の攻撃衝動を抑制するために、切迫した軍事状況の中では軍備はたしかに一定の効果はある。だがこうした国家を友好的な存在に変えるためには、軍備はまるで役立たない。むしろ恐怖と憎悪と不信を高める働きをする。そしていうまでもなく、相手の軍事衝動を押さえることで軍事紛争の発生を一時的に抑制することはできても、積極的平和は実現できない。われわれ自身の積極的平和の創造とともに、相手の積極的平和の創造にもわれわれが非軍事的な手段で協力することなしに、積極的平和の連鎖によるよりよい近隣関係の構築は実現しない。
世界の現実を見れば、きれいごとで物事は解決しないというのもまぎれもない事実だ。残念ながら今の地上は、愚かな政治家によるパワーポリティックスの横行で、国家間の利害関係は先鋭化し、民族間の憎悪は高まるばかりだ。こうしたなかでは、既得権の拡大をねらう強者も、強者の既得権をひっくりかえしたい弱者も、力による解決への衝動を高めるばかりだ。
それに、人間は権力をもつ者ももたない者も、本来弱い存在で、力に頼りたがるものだ。力をもてば、いっそう力に頼りたがる。力が武器という形をとれば、それを使いたくなる。面倒な忍耐や交渉を省いてそれで目先の困難が一挙に解決できると考えればなおさらだ。そして暴力は常に弱者に向けられる。
まぎれもなく、武器があるから、武力を使った紛争が起きる。国家が軍備を保持するから、戦争や軍事紛争が起きる。
現実政治の中で性善説に立った行動をすれば、間違いなく足を掬われ、名も実もむしり取られ、敗者に転落し、嘲笑されるだろう。だからといって性悪説に立って行動すれば、相手の不信と憎悪を掻き立て、それは軍事紛争やテロなどの形で我が身に降りかかってくるだけだ。
パワーポリティックスとは、力をもつものによる、他者性悪質に立った自己中心的な政策の推進だろう。パワーポリティックスによって地上を覆い尽くしている現在の悲劇的状況の普遍化は、パワーポリティックスのもっともあからさまな手段である軍備の行使では解決しないばかりか、ますます悲劇と混迷は深まるばかりだ。
すべての国家が絶対平和の理念と戦争放棄の条文をもった憲法をもてば、戦争や軍事紛争は皆無になる……とはいえないまでも、戦争も軍事紛争も格段に発生頻度が減る。
そうはいかないのが現実政治だ、などと知ったかぶって、現実政治が軍備を増強し、軍備によって最終的に問題を解決しがちなのを追認しているだけでは、戦争も軍事紛争もなくならない。そして繰り返すが、遠いところの軍事紛争は、いつ自分たちの暮らしの平安と命の安全を脅かすかもしれない。そうした世界に、いまわれわれは生きている。
どのような平和をどう実現するか、軍備の現実を見ながら知恵を絞り、世界が、人々が、力を合わせてこそ、平和が実現する。そういうときに、絶対平和の理念に貫かれ、戦争放棄の条文をもつ日本国憲法は、世界の人々のわれわれに対する信頼感を醸成し、積極的平和を目指すための現実的な指針になるだろう。
80%の性善説と20%の用心深さをもって、近隣に破綻寸前の危険な軍事独裁国家をもち、世界各地で軍事紛争を引き起こしている超大国と軍事同盟を結んでいるこの国の一員として、われわれ自身の命の安全と暮しの平穏を守り、世界の各地で暴力と貧困と不公正に苦しんでいる人々にとって、積極的平和を実現するためにどう行動しなければならないのかをこそ、考えねばならない。
それは、憲法の平和の理念をごみ箱に捨てて、海外で戦争のできる普通の国になることではあるまい。憲法の理念を現実世界のなかで具現化することだろう。
それを前提にして、巨大化したこの国の軍備をどうしていくかを考えていくことこそが、現実的な思考というものだろう。
(2004年11月13日)