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(回答先: 第五章 霊主体従 3 金銀爲本制 外国でお働きの日之出神/王仁三郎氏の説く皇道経済(大本教・民間信仰・民俗) [99-0 投稿者 謝寅 日時 2004 年 12 月 17 日 20:23:25)
*霊主体従 vs 体主霊従 -その1*
*背反する動き*
これまで、様々に疑問点が現れてきました。一方では体主霊従のイシヤ(フリーメーソン)と、それと正反対の霊主体従の神示群。
これら背反する勢力の働きかけとなる力は、同一のものから出ていると、受け取れる点です。 それは、日之出神の働きにも現れていて、矢野祐太郎氏の研究で、外国でユダヤ人を霊的に操作し、また大本では救世主的な役割があると、考えられていました。
一般に大本では、「大門」の経綸は悪神の経綸と考えられていて、その為大門出身の祐太郎氏の研究は大本では恐らく、まともに取り合わなかったであろうと思われます。
王仁三郎氏の行った型も、イシヤのそれと思しき事柄があります。それは、王仁三郎氏はその活動の一環として、「映画」・「音楽」・「新聞」などの活動を盛んに行っていたというものです。
新聞活動などは、前述の通りで、更には青年部の中に音楽部を設立、SP盤の吹き込みや音楽活動、果ては亀岡の旧城跡にて、当時の人気スターを遊ばせてみたり、青年会に映画班を三十六班、地方組織にも二十班を設置するなど、その宣伝活動は多岐に渡っています。
これは一方では、ヒトラー率いるナチスのプロパガンダ作戦を彷彿とさせますが、また一方でシオンの議定書に描かれた3S(スポーツ・スクリーン・セックス)という、非ユダヤ人を軟弱化する為の作戦というのがあります。
ちなみに、現在でも八幡書店から、「昭和の七福神」という映画がビデオ化され、販売されています。また「霊界物語」の「天祥地瑞」を脚色した神聖神劇は、アンナ・パブロア(ロシアのバレリーナ)に大きな影響を与えるなど、その方面での王仁三郎氏の才能は、なかなかのものであった様です。
こうしてみると、大本及び王仁三郎氏は、世界に起こる事を写す『鏡』としての性格を持っていたと考えれば、一応の説明はできますが、一体何故、この様な背反する動きを、同じ所からの働きかけが起きているのか、それが今一つ謎である所です。
*同じ名の神*
日月神示には、この矛盾性についての言及であるのか、他に意味があるのか以下のような一節があります。
**************
●同じ名の神二つあると申してあろ、同じ悪にもまた二つあるのぢゃ。このこと神界の火水(ひみつ)ぞ。この事判ると仕組み段々と解けてくるのざぞ。鍵ざぞ。
●同じ名の神二柱あるのざぞ。善と悪ざぞ。この見分けなかなかざぞ。神示読めば見分けられる様に、よく細かに解いてあるのざぞ、善と悪と間違ひ申していると、くどう気付けてあろうがな、岩戸開く一つの鍵ざぞ。名同じでも裏表ざぞ、裏、表と思うなよ。頭と尻違ふのざぞ。
-いずれも『日月神示』/岡本天明伝達より-
***************
これと同じ意味であるのかどうか、解らないのですが、全く個人的には「霊界物語」を読んだ折に、「八頭八王」(やつがしらやつおう)の神将と、「八頭八尾」(やつがしらやつを)の悪神が出て来る部分で、なんだか名前が似ているなぁ、と感じた事があります。
また日月神示に「この方この世のあく神とも現はれるぞ、閻魔とも現はれるぞ、アクと申しても臣民の申す悪ではないぞ、善も悪も無いのざぞ、審判(さばき)の時来ているにキづかぬか、その日その時さばかれているのざぞ」という個所もあります。
*何故背反する力が働くのか?*
大本神諭、伊都神諭などに、幽界と書いて「がいこく」というルビが振ってある個所が散見されます。日月神示にも出てきます。これを指して「日本は尊い神国だ、外国は幽界の国だ」という考えを持った人物も沢山居ただろうと思います。
また「悪の教え」「悪のやり方」という部分には、「体主霊従金銀爲本制之政策」という漢字が充てられています。要するに、外国は悪のやり方で、日本は尊いやり方だ、という事になるのですが、日月神示には「日本も外国も無い、外国にも日本の臣民があるし、日本にも外国人が沢山居る」(意訳)という事が書かれています。
実際、ついつい大本の神示であるから、大本の専属的な神であるという考えが間違っていて、例えば中国では道院・紅卍字会に「至聖先天老祖」という神名で出現しており、世界国々所々で、様々な神名を名乗って現れている様です。
それは、実際には神道でいう「国常立尊」という神名でありながら、大本で「艮の金神」という名で出現した事からも伺えます。
イシヤの仕組みという点から見れば、悪(体主霊従)を広めて、人類を愚鈍化させようとしているのに対して、各国所々に現れた神示は、善(霊主体従)を説いているのです。
一方で世界的にある働きをする力が働いたと思えば、もう一方では全く反対の人間を育て様とするのだから、矛盾撞着もはなはだしく、ユダヤ教的に言うと、ハルマゲドン=善と悪の最終決戦も何も無いものだと思います。
同じ雇い主が、傭兵を雇って、お互いに戦わせようとする様なものだからです。自分もしかし、これまで何度も、疑わしい思いをして来たので、よくも捨てずに居たもんだと思います。実際には一旦捨ててしまった方が、体験的に納得できて、良いみたいです。
ちなみに、新人の社会人がやって来ると、研修で習った事が最善であると考え、現場に居る自分等がより確実な方法を教えても、何が良くて何が悪いか、それ自体解らない新人は、どうしてもマニュアル通りのやり方で、あらぬ失敗をする事がありますが、一度間違うとそれ以降はよく理解して、同じ事は繰り返さなくなります。
本題に戻ると、これと同じような事は、ヨハネの黙示録にも書いてあります。それは大略、サタンの活動がある一定までは、力を与えられ猛威を振るう事が、許されている点です。